7月25日(日)

7時起床。


ジュニアの散歩から帰るとすぐにバケツをひっくり返したような雨が降ってきた。
そしてそれは庭木への水やりとしては十分に降り続けてやがて止んだ。
なんだか地面全体が冷やされたような、そんな雨だった。
午後からは曇りがちではありながら、時折太陽が顔を覗かせた。
でもそれは、昨日までの夏とは違う、すこしやわらなか夏を思わせるものだった。


午後3時頃に母を知っているという方がご来店された。
彼女はおよそ20年以上前にサントスコーヒー店で仕事をされていたとのことで、
当時母はよくお昼を食べたり、お客様とそこで待ち合わせたり、
あるいは、僕と食事をするために、そこを利用した。
お客様曰く、母にはよく淹れ方がわるいと怒られもしたけど、おいしいときちんと褒めてくれたから
とてもうれしかった、とのこと。
そんな途方もない過去の出来事をきっかけにまたうちのお店に来ていただけることのありがたさを思う。


母はそれぐらいハッキリしていたから、よく思われる人もいたし、もちろんその逆も少なくなかったように思う。
ただ、そんなふうに自分の立ち位置や考えを表に出さなければ、ほんとうの関係性をつくることはむずかしいのではないか。
(20年以上記憶に止める価値とはいかほどのものか、静かに喫茶店を楽しむ客であれば、そうはならなかったのではないか)
表面的な関係に止めて、わるく思われないことはできても、そのような存在にどこまでの価値があるか。
みんなとうまくやれるようにバランスを取る、とは、独自の見解を示さないこととどこまで違いのある話なのか。
もちろん、違いはあるのだろう。
ただし、言葉としてそれは定義できたとしても、存在として、あるいは、状況として
なかなか定義できないものと思うが、違うだろうか。


ちなみに僕はコーヒーが不味かったら、お店のせいにせずに、そこに入ってしまった自分のせいにする。
自分の見る目のなさのせいに、である。
でもそれはお店のことを考えてはいない。
旅先であればまだしも、地元であれば、もっと長い目でみる必要性を感じる。
お店によくなってほしいことをきちんと伝えるお客にこそ自分はなるべきなのではないか、と思いながらも
なかなかそうはなれそうにない。
たぶん「るせんだよぉ!!」とか「味もわからないくせに・・」と言われるのがただただ怖いのである。
あるいは、そういうことを言わない謙虚さこそ大人のしるしなのだ、と思っているのである。