ぼくらが降りていくべき場所

最新の『Casa BRUTUS』の表紙を含めて巻頭には
ソニアパークさんが最近オープンさせた「DOWN THE STAIRS」が掲載されている。
まだA&Sが代官山と青山(の骨董通り)の路地を入ったところにしかなかった頃から彼女の審美眼には敬服していた。
そこは日用品とファッションが実用的且つ機能的なディテールを持ちながら、ひたすらに美しく鎮座していた。
すべてに形状というカタチのデザインとともに質感のようなものを持ち合わせていたし(決して上質なだけではない)
それは今も変わってはいない。


『Casa BRUTUS』の巻頭には次にように書かれている。

テーマは食だが、そこはカフェでも食堂でもない
料理はもちろんのこと、食材、インテリア、調理道具まで
ソニアが選んだものしか存在しない、まさに「A&Sの台所」と言える場所。

カフェでも食堂でもないにも関わらず、ぼくはそこにごはんを食べに行った。
もちろんお茶だけでもよかったのだけれど、すでに午後1時を回っていたし、
ここでコーヒーだけを飲んで帰るという選択肢は考えにくいものだった。
それは空腹を満たすというためではなくて、彼女がこの場所で何を表現したいのか、
その一端を体験してみたいという少なからぬ思いもあってのことだった。


ランチメニューは二つ(ドライカレーと蟹のクリームコロッケ)あり、ぼくはなんとなくドライカレーを選んだ。
ドリンクなしで1500円。テイクアウトだと300円ほど安いらしい。

アスティエ・ドゥ・ヴィラットの大きめのプレートで供される。
カトラリーもアスティエ。
もちろん不味いことはない。
けれど、とってもおいしいとまで言い切れないほどのおいしさだった。
ふつうにおいしいってまさにそういう感じ。(勿論それでいいとも言えるわけだけれど)


でも、なぜだろうって思った。
と同時に、器やカトラリーを含む雰囲気が突き抜けてしまっているために、それとバランスがとれる料理を皿の上に表現することが
むずかしいのではないか、と思った。
考え抜かれた絶世の美女のとなりに立つにふさわしい男性像を考えるときに、もはやそんな男性は空想の世界にしかいないのではないか、
と思ってしまうことにそれは似ている。


つまりぼくのなんとなくおいしいものを食べに行くという発想に限界があるのだ。
(別においしいものを食べに行く以外の食堂に行く動機があったっていいのだ)


あの場はどんな場か?
「食」を通じて「器」を体験する場。
器に息吹きを与えるために料理を設え、
カトラリーでそれを口に運ぶことで、いままで見えづらかった皿の機能を体感する場。
だとしたらあれはあれでいいのかもしれない、と思うのだった。


「DOWN THE STAIRS」はまるでネイチャーアクアリウムみたいだ、
としたらとても腑に落ちた。
ネイチャーアクアリウムの正確な原義を知らないけれど、水槽のなかの主役は熱帯魚から水草に移った
熱帯魚は精密につくりあげられた生態系によりリアリティを与える脇役にすぎない、
というのは、ぼくの金魚文化で育った者にとってはとても新鮮なことだった。


人工的に自然を作り上げたときにその自然さは何が担保するのか、と言えば、
そこに生息するものが確かに存在する、ということだろう。
メインは水草。熱帯魚はサブ。
メインは器。料理はサブ。
もちろん双方はまるで自転車の両輪のように影響し合っているし、一方が一方を支えている、とも言えるわけだけれど。


ここまでいくと、味覚とはどういうものかという深い深い問題に行き着いてしまう。
インテリアや器や照明などを含む雰囲気というものを取り除いたときに存在する「料理」はいかほどにおいしいのか?
という問題はいかほどの重要か、という問題…。


銀座の一等地で格安のフレンチが食べられるということで「俺のフレンチ」という立ち食いフレンチが人気だと聞いた。
確かに値段の割りにおいしいから、コスパが高いということはあるんだと思う。
おいしいは目的ではなく(手段に過ぎず)たのしい時間だったなぁ、という実感が目的だとしても、
そこにコスパはどのくらいあるのか、ということが気にかかる。


これについて、もはや結論として言い切ることは誰にもできまい。
しかしながらここにある価値観が文化というものを支えているような気がしてならない。