紅くない紅葉(論理矛盾)も十分にうつくしい


あまたある紅葉の見所に人を供給する役割を果たす京都駅は
まさにマラソン最中の心臓が血液中のヘモグロビンを使って
酸素を体内に運ぶかのように忙しく鼓動し続けている。
ヘモグロビンという名のバスに酸素という観光客を取り込めるだけ取り込んで、
臓器という紅葉名所に運んでいくさまは圧巻というほかない。




紅葉を見ていて思うに、
僕は春の桜と秋の紅葉を対の概念として捉えていた。
しかし、ちと違うことに気づいた。
何かと言えば、桜は満開に向かって徐々に美しくなっていき、そのクライマックスに花が散り、空を舞う。
一方紅葉はただただ真っ赤になれば美しいかと言えば、そういうことでもない。
まさにグラデーションの美しさが紅葉の美しさと言ってもいいように思う。
つまり緑と黄による、紅くない紅葉であってもそれは美しいのだなぁ、ということに初めて気がついた。




さらには東福寺の四角というかスクゥエアでフラットな構成の美しさにもまたハッとする。


京都駅よりも南になんかそうそう行くことはないのだけれど、こういうものを
縁側にゴロンと寝っ転がりながら見られるだけで行く価値がある、なんてことを思う。
もちろん紅葉の時になんて行ったら床をドタバタ歩く音がうるさすぎて寝っ転がってたら
邪魔者扱い間違いなし。
だから閑散期のそう暑くも寒くもないひっそりとした平日にこっそりと行くのに限る。




友人が2店舗めの美容室をあたらしくオープンすることとなり内覧会にうかがう。
ある程度人が出て行った後のサロンにはもうお客様が入っているイメージが少しずつ
できはじめているように見えた。

色んな人がいるものだ。

とてもしあわせそうな空気が流れている。
この流れを、この雰囲気を覚えておかなくては。
違う場所に再現するために、感覚として覚えておかなくては。




ほんとにどうでもいい話だけど、
先日発売された『クウネル』の最新号に付いているふろくのカレンダーが去年のよりいまいちになり残念だ。
紙質もそうだし、色もナチュラルさが薄れたし、ひと言もなくなり、クーネルくんだけになった。
しょぼくあり続けたほうがよかったのに、これはお金をかけたのかなぁ。
ふろくで数少ない使えるカレンダーだっただけにすこしさみしい。


でも今回の『クウネル』はいい。

ku:nel (クウネル) 2009年 01月号 [雑誌]

ku:nel (クウネル) 2009年 01月号 [雑誌]

冒頭から高橋みどり・高山なおみ幸田文・・と続く。(定番メニューだよ!)


大学4年の時にアンアン増刊として出版され、本屋さんで『クウネル』を見つけたときのうれしさったらなかった。
自分の興味領域の共感可能なテーマがぎっしり詰まっていたんだから。
で、スタバのバイトの女の子に『クウネル』っていうとてつもないいい雑誌が出たから、ぜひ本屋さんでみてね、
と言い、あそこの本屋さんのあの棚のあのあたりにあると思うからさ、なんてことまで言っていたっけ。
(行きつけの本屋が河原町六角にかつてあったのだ)
高橋みどりから始まって7年経ってまた高橋みどりに戻ってきた。
アンアン増刊を経て予想をはるかに上回る部数を発行することになった『クウネル』は色々巡り巡って
『クウネル』的なもの、というくくりで記事を書いてきたのだろうけれど正直ぱっとしないときも少なくなかった。
そりゃ7年もやってれば仕方のないことなのかもしれないけれど。
でも、つまんなくても僕はなんとなく買い続けた。
リンカラン』とか「天然生活」とか『クウネル』から派生した(パクった?)雑誌もあったけど、『クウネル』を買い続けた。
それは「すき家」は行かずに粛々と「吉野家」に足を運び続けるサラリーマンみたいなものなのかもしれない。
そういう元祖、としての敬意を僕の中でどこかに持ち続けていたのだ。
だから僕はこれからもつまらなくても『クウネル』を買い続けることにする。