牡蠣のような存在とは

カキってね、すきなものでも1位だし、きらいなものでも1位なんですよ、
と佐藤さんは言い、さらに続けて、カキみたいになんないといけないんだよ、
とも言った。


ある種のおいしさとまずさは相性を介在しつつ、すれすれに存在している。
そして、ともに強い印象を与えられている、という共通点がある。


それは毒のまわりにうまみが付着しているような、
アクロバティックな果実をイメージさせてくれる。


みんなにほどほどに好かれる存在ではなく、
高く評価する人と同数の敵をつくるくらいの存在のほうが
組織の上に立つ人間としてはふさわしい、という論理。


リターンにはそれを反転させた分のリスクが伴い、
つまりは、マイナス1とプラス1、マイナス10とプラス10
というふうにその絶対値としての距離がそのものの登りつめる限界点を示す。


その限界点を大きくしていかないと、組織そのものが持つパワーが大きなものになっていかない。
もちろん、それは、人数の問題ではなくって、影響力や希少性を源泉とするような問題としての話
でもあるわけだけれど。


それにしてもカキってものをなぜ人は嫌うのか(僕は大好きなのだが)と言えば、
あたってしまってどうしようもない腹痛に襲われた経験がある、ということがあるのだろう。


それは、たとえ人を傷つける可能性を孕んでいたとしても、
人に夢を見させる要素があれば
カキみたいな存在として生きられるのではないか、
ということを思わせる。


もちろんそれは、あまりの傍若無人ぶりによって人を遠ざけるのではなく、
魅力的でありながらも一方で不評を誘う振る舞いにこそ
人についていきたいと思わせる依存性の高い成分が含まれているのではないか。


僕にはまだまだそういう毒々しさを生み出すことはできない。
毒であると知っていても、そこから香り立つもののほうに歩みを進めていくような毒、のことである。


ただあまりに味覚の深淵にあるような「苦み」をうまみに置き換える装置を廃棄してしまうことは
味覚そのものの領域を急激に狭めることになることを忘れないようにしなくてはならない。
自分にとっての「苦み」とは何なのか、ということを自覚しつつ。