気持ちよさは「思いのクォリティ」の多寡で決まる

as it is に伺う前の晩のこと。
千葉県茂原市にある「優膳」というトンカツ屋さんの暖簾をくぐる。
http://r.tabelog.com/chiba/rstdtl/12003688/
いらっしゃいませ〜という大きく威勢のいい声が店内に飛ぶ。
カウンターの席に腰を下ろし、極上ロースカツを注文し、しばし待つ。
待つ間にも多くのお客様が入ってくる。
そのたびにいらっしゃいませ〜が飛び交う。
ときに調理中のためにしゃがみながら他の店員のいらっしゃいませ〜に
反応して言うこともあった。


僕はこれまでお客様を見ずに言う、いらっしゃいませ〜は
お客様に向かっているのではなく、
(お客様の)来店という事実に向かっているような気がして、
失礼なこと、とまでは言わないまでも、いいことだとは決して思っていなかった。
でもそのときのいらっしゃいませ〜は全然失礼な感じはしなかったし、
むしろ気持ちよい感じすらした。


はてはてなぜだろう、と不思議に思った。
それはトンカツ屋さんとか居酒屋さんだと元気とか威勢がいいことが
「いらっやいませ〜」の多くの成分となり、
ホテルやレストランだと落ち着きとかやさしさが
「いらっしゃいませ」の多くの成分となる、
ということなのだろうか。


空間、場面によって適切な言葉や対応が存在する。
あるいはそれはお店がお客様をお迎えする心構えというかスタンスに
よるものかもしれない。
いずれにせよ、かしこまらない普段着の気軽さや心地よさを
若干軽視してきたような気がする。
ジーンズよりスーツがえらいわけでは決してないだろうし、
品質の高いジーンズは低価格スーツよりもよほど高価だし、長くつきあっていける。
(安っぽいスーツほど見れないものはないよね)
中国製のスーツよりも岡山製のジーンズ、僕はそのスタンスに共感を示すひとりだ。
問題は本質としての「思いのクォリティ」がどれだけそこにあるか、ということだろう。
最高級ジーンズもよし、仕立て屋さんのスーツもよし。
もどき、が一番いただけないのだよ、
ということをトンカツを待ちつつキャベツをほおばりながら思う。


トンカツがやって来る。
最低限の火が通っている断面はきれいなピンク色。
トンカツをいかに揚げることなくトンカツたらしめるか、
という意識をそこに見る。
そう、お刺身でもなく、焼き魚でもない、たたき、という手法に至る
ひらめきをトンカツで表現した、と言えばよいのか。
表面だけを衣が被い、できるかぎりそのおいしさをとどめた
フレッシュなお肉がそこにある。
すべてをソースで食べてしまったことを後悔する。
なぜお塩いただけますか?と言えなかったのか。
そういう作法こそこのうまみを最大限に引き出すに違いない。
いまはなき京都蕎麦の名店「なかじん」の粗挽き蕎麦を
すべて塩でいただいていたことがなつかしい。
すべてをソースでいただいたことがすこしばかり悔やまれたが、
もちろんソースでも美味である。
茂原市に行く方には強くおすすめする。