as it is という小さな美術館の話。

千葉の山のなかに as it is という小さな美術館がある。
http://asitis.sakatakazumi.com/
ずっと行きたかったところなのだけれど、決して近くないし、金・土・日・祝しか
開いていないからなかなか足を運ぶことができなかった。
澄み渡る青空のなか幸運にも5月6日(祝)の朝10時に行くことが出来たのでそのことについて
少しばかり書きたいと思う。




as it is 個人コレクション展3
come on-a my house
中村好文 すまいの風景


中村好文を知らない人へ、こんなひと。
http://www.sumu2.com/key_person/2004_8/index.html
ジーンズのような普段着の家が理想」とのこと。
まさにas it is=「あるがまま」であることこそ大切。
力の抜け具合に力を感じる。
深澤直人が「ふつうがいい」というのとそう遠くないところにあるように思う。
ちょっとたとえ話につきあってほしい。
ふつうってのが正方形の真ん中にある、とする。
デザインというのは往々にして上下左右への移動をもってデザインとする。
極端に左に行ってみたり、下に行ってみたり、真ん中にある、ふつうからの距離感を
デザインというふうに呼ぶように思う。
彼らはできるかぎり真ん中に大切なものがあって、その正方形の奥に進もうとしている
ような気がしている。ふつうは真ん中から上下左右ではなくって、3次元的に奥に進もうと
する力ではないか、と勝手に考える。
ずらす、のではなく、奥に進むと遠くから見ると同じように見えて、あからさまに違わない。
そんな気分に僕は強く共感する。


『ミセス』6月号に美容ジャーナリストの齋藤薫が「自然体でいたい」とか「ナチュラルな生き方をしたい」ということを
肯定しながらも、ファッションの視点から近いことを語っていた。
[rakuten:book:12915457:detail]

何のてらいも自己主張もなく、そして自分をよくみせようという計算もない、まったく爽やかに涼やかに
人の心を捉えてしまうから。でもだから自然なのに素敵って相当難易度の高いこと。そう甘くないのである。

とか

ファッションにおけるナチュラルも”何となくナチュラルなもの”をなんとなく装うと、それこそ、
何でもない女に見えてしまう。
(中略)ナチュラルな装いほど、丁寧に慎重に、一分のスキもなく着てほしいと思うのである。

それと遠くない繊細さが必要であることは共通のこと。



ちょっと余談が過ぎた。



まずパンフレットの文章を引く。

個人コレクション第3回目は、中村が、自身の設計によるmuseum as it is の空間
を自宅に見立て、長年かかって身辺に「集まってきた」品々を、
それぞれのあるべき場所にしつらえてみせる、という趣向である。
「美術館に来たつもりが、個人の家に来てしまった・・・・」
と錯覚してもらえたら、企画者の思惑的中ということになるだろう。


その中村好文のもとに、まるで磁場でもあるかのように「集まってきた」品々の美しさも
さることながら、それが収まるべき場所に収まっている、という状況そのものが美しい。
美しさ×美しさ=?
空間に流れる空気が変化する。
科学的にはなんら変わっていないのかもしれないけど、感覚としての違いは明確にある。
玄関を開けると美しさがぼわっとあふれ出てくるかのよう。


庭も計算されつくした「あるがまま」で美しい。
土のうえをてくてく歩くアリも心なしか笑ってる気さえする。


庭から室内を見通す。


和室にカッティングボードとオーバルボックス


理想的書斎。すごいものが書けそうな気がする。すくなくとも座る喜びに溢れている。


なにげないものもしつらえ方次第でこんなふうに収まる。


館長さんから珈琲が供される。
いい時間が流れるための触媒として機能する。


錆びや朽ちという時間経過を経ずしては至ることのない美しさを再認識する。
そういう美しさを備えた人間でありたいと強く思う。