「便利」によってこぼれ落ちる感覚がある

クルマのエアコンがぼっこわれた。(あまりに衝撃的で方言が出た!)
からっきしぬるい風しか出ず、20万弱の見積書が上がってきた。
もちろんエアコンなしでこの夏を乗り切れるわけはないから、近いうちに(暑くなるまえに)
修理してもらうことになるだろう。
ただこの金額だと「じゃ、おねがいしまぁ〜す」と軽々しく言えない、というただそれだけである。


だから窓を全開にして涼やかなる風を車内に取り込む。
スピードを出すと風がグルグルと巻き込まれてうるさいのだけれど、ガマンガマン。
窓から手を出すと、そこにある空気は山に流れる水のようにひんやりと冷たく、そして心地よい。
はおっていたジャケットを脱いで助手席に置き、シャツ1枚でハンドルを握る。
エアコンがあるときにはわからない、不便さのなかにある喜びを見つける瞬間が訪れる。


まったく自分を変化させることなしに、生活できる、ということがエアコンがもたらしてくれた
快適さ、だとすると、自分ができうる、極限まで脱ぐ、であるとか、窓を開ける、であるとか、
そういうセルフチューニング機能はどんどん忘れ去られていく。
暑い→脱ぐ→それでも暑い→窓を開ける→うちわで扇ぐ→まだ暑い→しょうがないエアコンでも入れるか
などというまどろっこしい過程は一気飛びで、
暑い→エアコンを入れよう
以上、となる。


無意味な試行錯誤をひとっ飛びして、目指すべき状態にすぐになることを僕らは便利さと呼ぶのだろう。
多くの時間を費やした労働をひとっ飛びして、ワンクリックで何千万というお金を儲けることが
理想的ありようなのだからね。


だんだん僕らはそれによってこぼれ落ちていくものを見る視力さえ失っていく。
そうやってすべての物事が「当たり前」に回収されていく。


さっき茂木健一郎ブログで興味深いお話を見つけた。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2008/05/post_1064.html

私たちは、現代社会の中で、
世俗的な文脈の中で一生懸命がんばって
いる。


商業主義は、どんな分野で活動する
人にとっても、無視することので
できない「友だち」。


しかし、商業主義という「友だち」
だけだと、人間としての生き方が
「全体的」にならない。


同時に、生や死や、魂のことを
思う、「聖なる」領域を確保
しなければならない。


商業主義と、聖なる領域と。
どのようにしてそれらの
異なるものを共存させ、
活き活きとした命の動きを引き出すか。


ビジネスとクリエーションのあわいを進む術を探す。
「聖なる領域」を大事にしすぎるあまり、「商業主義」というお友達と少々疎遠になっている。
親友まで言えなくても、しっかりと知人じゃなくって友達にならねば。


どうやったら「聖なる領域」からこぼれ落ちるものの受け皿となりえるのか、最近そればかり考えている。
そのためにはしっかりと「商業主義」と友達になることが近道なのだ。
引き裂かれつつ融合させる。
そういうねじれを力に変えることを目指して。