ひさびさに京都に行く。

梅雨入りしたものの晴天が続く。
京都駅からレンタサイクルでぐるぐる京都観光。


ひさびさのエフィッシュ。

僕の学生時代(10年くらい前)のカフェブームからずっと変わらない。
百万遍進々堂の変わらなさとは違った時間が止まった感覚に出会う。
エフィッシュの変わらなさは鴨川の変わらなさであり、
進々堂の変わらなさは黒田辰秋の大テーブルの変わらなさである気がする。


この気持ちよさはなんだろう?
少なくとも人がほいそれと作り出せるものではない、ということがある。
人が作り出せないもの、とは時間であり、
そこには長い時間をかけて作り上げられた(あるいは育てられた、と言ってもいいかもしれない)
ものならではの心地よさがある。
閉じられほの暗さのなかにある静謐さと開け放たれた窓から入る風の肌触りは
時間という触媒をなくしては作れない。


人はいつの時代も時間とのコラボレーションを続けてきた。
そしてそのコラボレーションがうまくいくことはそのもののクォリティの高さを意味した。
多くのものは時代という小高い丘をうまく越えることができない。
越えられるものはさらに時間というエネルギーをうまく使い次の時代を駆け抜ける。


都市における歴史性がいかに大切かを再確認した。