手の中の空気をつかんだり、はなしたり。

数ヶ月前から「かな」を習っている。
いわゆる新聞社がやっているカルチャースクールのようなところに行って
おばちゃんと席を並べて墨をゴリゴリすって、筆を動かしている。
初日になんで「漢字」じゃなくって「かな」を選んだんですか?と聞かれた。
たしか、流れるような「かな」はうつくしいから、と答えた。


そう、「かな」は流れるのだ。
最初は単体(ひと文字ひと文字)で練習するが、それは便宜上のことであって、
流れない、つながらない「かな」はありえない、という。


書くこと、を先生はこんなふうにも言う。
「筆を持った手の中の空気を掴んだり離したりするんですよ」
筆を直接的に動かす、のではない。
筆に動かされるように、手のひらを開けたり閉じたりする。
手が、あるいはその動きがなめらかでうつくしいとその下にある真っ白な紙にうつくしい軌跡が
対照的な黒の線として姿を現す。
軌跡のうつくしさが書き表された文字のうつくしさを表す、は、
美容師のハサミと手の関係、そしてその動きと作り出すフォルムの関係に等しい気がした。


そもそも「かな」というのは、表意文字としての漢字を一字一音として表音文字として
置き換えることで生まれるわけだけれど、そこには僕らが想像する以上に長い道のりがある。
どんな道のりであったかは省略するけれども、
漢字の「簡略化」が画数を減らし、角を取り除き、「かな」にしなやかな流れをつくった、と言っていいように思う。


問題はそれがただの「簡略化」に終わらないところである。
平安時代になると、和歌を愛し、生活のすべてに品位ある美しさを追求した貴族の耽美趣味が
「かな」の発展に大きく関わることになる。
つまり、読むために存在していた文字を、それにとどまらず、うつくしい、という機能をも
求める、という感覚が生まれ、その行き着く先が茶の湯の掛け物、となり今に残る。


今となってはかなは一音に対して一文字となっているが、かつては同じ音にいくつもの文字があてられていた。
たとえば、「は」の字母(原型の漢字)は「波」なのだけれど、それ以外でも「者・盤・八・半」を「は」にあてて
文章を紡いでいたという。


そのかなの流れをいかにうつくしく保つか、を考えながら、どの「は」→「「波・者・盤・八・半」にするかを選ぶわけだ。



そう言えば、最近「うつくしい」という言葉を使っている方を見ることは少ないような気がする。
それはかわいい、とか、きれい、とか違う言葉に置き換わったのだろうか?
それともうつくしい、とまで言えるものがすくなくなってきたのだろうか?


みなさんは、うつくしい、と最近口にしましたか?

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