「一緒にやる」と「自分でやる」

最近「一緒にやる」ということが多い。
お手伝いをしてもらったり、教えてもらったりするような、
対等でない関係であることも含めて
時間と空間を共有して色んなことを「一緒にや」らせてもらっている。
僕にとってはとてもありがたいことだ。


それは僕ひとりでは何もできない、ということが大きな理由なのだけれど、
もちろんそれだけじゃなくって、「一緒にやる」と楽しいし、よりよいものができる、
ということがあると思う。


まさにその「一緒にやる」という特集を組んでいる「Re:S」という雑誌をみつけた。
見つけたって言ったって、はじめて見たわけでは決してなくって、創刊号の時から知っていて、
パラパラ見ることはあって、おもしろい取り組みだなぁ、とか、好感が持てる姿勢だなぁ、とかは
思っていた。
だけど今回のが(創刊2周年記念リニューアル号だからかな)かなり胸にぐぐっときた
(ドキドキしたし、鳥肌もすこし立った)


Re:S vol.9 一緒にやる

Re:S vol.9 一緒にやる


そこで思ったのは、「一緒にやる」ということの前には、
「一緒にやりましょうよ」という呼びかけよりも先に、
「なんとかして自分でやる」があり、それに共感する人が現れて、
結果的に「一緒にやる」になっている、というところ。


自分ひとりでもやる、やりきる、という覚悟に人はときに惹かれ、
「あのぉ、僕もお手伝いできますか」という言葉を口にする。
その特集の締めくくりに「Re:S」編集長の藤本さんがこんなふうに言っているように。

自分でやるということに極限までチャレンジした人こそが、
「一緒にやるライセンス」を持つのだと改めて思いました。
(中略)
お互いのポテンシャル(持っていながら活かされない大きな力、才能)を
最大限に活かして、足らないところを補い合い、同じ目的を持ってチャレンジしていく。
それは実にシンプルで自然な行為です。
コラボレーションなどと銘打って、仰々しくやるものではありません。
それが今回僕が伝えたかった「一緒にやる」ということ。
人間に個性があることの意味は、そこにこそあるのだと僕は思います


その藤本編集長とナガオカケンメイさんとの対談のなかで、
藤本編集長が言っていることが強いフックとなってひっかかってくる。
それぞれ、藤本編集長は「Re:S」をナガオカさんは「d」という雑誌を作られている。
ナガオカさんは「d」を休刊され、目下リニューアル準備中、という。
それを踏まえて彼らは次のようなやりとりをしている。

ナガオカケンメイさん:


4年もやっていて気づいたんです。
デザインを「デザイン雑誌」っていう括りで出し続けているエゴみたいな。
それは「売れない」っていう結果論があるにも関わらず、
「いや、いつかは売れるだろう」もしくは、
「売れなくてもいいだろう」っていう、これデザイナーのエゴ。


よくあるんです。
「いいデザインなんだから売れなくていいんだ」とか
「売れないことは皆がそういう視点を持っていないから皆が悪い」とか。
どうしてもデザインを可愛がってしまう。
僕も4年間可愛がりすぎたんですよ。
で、ハタと、「これだけ売れないって答えが出ているのに、なぜまだ可愛がるんだ」
ってなった時に、「あ、そうだよな」って。
そんなことに気づくはずなのに。


これを受けて藤本編集長は僕にとってどきりとさせられる、絶妙は返答をされます。
長いですが立ち読み的感覚で、引かせていただきます。
(おもろいと思った方はぜひ買ってくださいね!)

藤本編集長:


僕は「Re:S」を丸2年やって、まさにそんな状態で(笑)。
要は、REENAL=りそな銀行さんの支援があって成り立っていることを頭で認識しながら
体でわかっていなかったというか。
それが前号からなくなって、その途端に足下がグラグラで、
「あ、やっぱりお金って大事やし、売れないといけないんや」ってところに
目を向けざるを得なくなって。
型にはまらないようにしようと色々とチャレンジできてたのは、
結局保証があったからやって気づいたんです。
それがないってなったときに、いよいよ読者の人が何を求めてるのかということを
やっぱり考えないといけない部分もわかってきて、
どうしようかなという状態なんです。


だけど、元々いろんな商業誌の仕事をしてきて読者やクライアントや取次やと、
八方美人になってしまっているから、どんどん中身が小さいものになって
つまらないんだって思っていたので、なんかもう、ある意味独裁者ににならなあかんと思って
「Re:S」をやり出したんです。
なんというか、本当に強引なエゴというか、それを逆に通しきる雑誌。
その代わりそこはすぎ腹くくって自分がちゃんとケツを拭く覚悟を持ってるとか、
責任っていうところがすごい重要で。
それを考えるとなかなか広告って入れれなくて。
そこにも迷惑をかけてしまうことがあるので。
じゃそれ以外でどう稼ぐのかっていう考えになってくると、いよいよこれはどうしよう
って陥っているときに、ナガオカさんからメールをいただいたんです。


彼にとってのナガオカさんからのメール、のような、救いはまだ僕には
訪れてはいない。
だけど、そこまでの話というのは全部僕のことを言われているような、
言い当てられているような、そんな力強さをもって僕のココロに飛び込んできた。


いままさに僕がこうして美容室をやっていられるのは、一緒にやっているみんなのおかげだし、
というか、おかげでしかないし、母の代から20年近く(あるいはそれ以上を)いてくれている
ベテランスタッフの支援なくしてはありえなかったことだ。
そういう支援という名の保証があってはじめて「文化」なんていう使い古された言葉を
どうこうしたい、などというたわごと(多くの人がそう思うだろうな)
を言い続けられてきたことを忘れてはならない。
今ある「一緒にやる」は「自分でやる」という覚悟の上にあるものではない。
だからこそもう一度、「自分でやる」をつくってから「一緒にやる」を問わないわけにはいかない。
そんなふうに思う。
もちろん、誰も「一緒にやろっか?」と言ってくれなくても仕方ない、という決意でね。


「何がやりたいのか」
「それを本当にやりたいか」


戦略としてどうこうという答えを探す前に、このような素直なシンプルな問いに
しっかりと向かい合わないといけない。


明日明後日は久しぶりの連休だし、
じっくりと座布団にでも座ってそんなものと向かい合うことにしますかな。
ナガオカケンメイの考え
ナガオカケンメイのやりかた