文章を書き始めることの難しさ、について

ブログが書けないときは、その書けないことについて書く、
という裏技 をあみだした。
別に書く義務があるわけではないのだけれど、数人の訪問者があるのを 知りながら、
約束などしていないとは言え、留守であり続ける、ということは
とても すまないことをしている気がする。
表札をかけてここにこうして存在している以上、やはり数日に1 回は庭まわりを掃き清めるとか、
そのついでにすれ違う人たちにあいさつをし、会釈をすることは暮らしを成り立たせる
重要な要素である、とすら思う。
使っていないと家は傷む、とはよく聞く話。
だから使わない、つまり留守にし続けるのであれば、誰かに貸した方が
いい、ともまた聞く話。
でもブログは借り物だから、それをさらに貸すなんてことはできやしないのだけれど。


閑話休題
最近仕事もはかどらない。
仕事がはかどる方法を教えてほしい、と思っていたら空から声が降って
きた。
「はかどらざるを得なくなれば、はかどるさ」
そう、はかどらなくてもなんとかなるからはかどらない。
すべては危機感の問題。
わかってる。
まだ余裕があるらしい。
もうそろそろないと思っていたのだけれど。


さらに閑話休題
それにしても、さて、と文を起こすよりも「閑話休題」と書いたほうが、
まったく話が変わってきても怒られないような気がしている。


(実験的に)さて、、、(と書いてみる)


腐敗と熟成
時間との協力が不可欠。
紙一重の解釈問題。
醤油も納豆も諸味も好き。
気をゆるめないように気をつけて。
人間関係もそれに近いものがあるのかもしれない。


島というのは海に囲まれている。
囲まれていなければ、それは島ではない。
半島か岬か何かに違いない。
海は実際的な行きづらさをもたらし、それは都市化を遅らせてくれた。
都市化は利便性をもたらしてくれる。
もちろんそれは大きな島から始まっていく。
身近なところでいえば「佐渡島」とか「淡路島」とかそういうメジャーな島。
コンクリートを運ぶトラックが次々と観光地をつくり、海沿いのロケーションに
シーサイドホテルをつくった。
佐渡金山のなかでは当時の労働者を再現した蝋人形が閉館時間まで働き続けていた。
今となってから「そんなのを僕らは見たいのか」という問いを立てること自体、
すこし卑怯なのかもしれない。
未来を知ってからあの馬が来ると思っていたのだよ、とぼやく競馬おじさんと変わらないのかもしれない。
でもあえて言っておいたほうがいい気がするから、ここに記す。


昨夏、世界遺産に登録された石見銀山島根県大田市)が観光客の激増に対して、
路線バスの廃止を決めた、と今日(9月22日)の毎日新聞にあった。
路線バスが観光バスに変わり、排ガスや騒音や震動をもたらし、さらに住民が乗れないバスとなった。
「自然との共存」「環境との調和」が評価されて登録された一方、それが犯されつつあるという葛藤。
歩く観光へと舵を切り、山陰の片隅の小さな町から「環境と共生する世界遺産」を全国に発信する。
都市化というレースで先頭集団にいた佐渡が、急激な価値転換のなかで、気づくと最後尾にいて、
屋久島や直島に大きく水を開けられている。


もちろんアートと田舎がタッグを組めば観光客が倍増する、という安直さではないことは確か。
この問いに明快に答えることのできる方程式はいまだ存在しない。
手がかりがあるとすれば、自分たちのものさしで自分たちの魅力を積み増していくこと。
受験勉強でいい点をとれば、というわかりやすさが終わりかけている今、
これは島だけの問題ではなく、人としてのありようを考える上でも外すことのできないことに違いない。

ローカルとデザインとの配合バランスをまるで効き目のよいクスリをつくる科学者のように
考えてみる。