フェルメールを見て日本を感じる

東京にフェルメールを見に行った。
http://www.tbs.co.jp/vermeer/jpn/index-j.html
札幌にラーメンを食べに行った。


なんか似てる気がする。


別にそれだけのために行かなくてもいいじゃん、と言われそうなところが。



フェルメールって世界的にすごい画家であることは知っている。
だから日本人も好きなのかな、と思ったのだけれど、
美意識がとても日本的だなと思った。

これは今回来た『手紙を書く婦人と召使い』という作品。


フェルメールは室内の何気ない風景をそっと切り取る。
そこには窓があり、美しい光が差し込む、
あるいは、光が差し込み、その風景を美しく照らす、と言ったほうがいいのかもしれない。


いい意味で、簡素。
力量を誇示するような過剰な書き込みがない。
いい意味で、無表情。
意味を特定的に語ることへの自制が感じられる。


最近、スタッフにこんな質問をされた。
本をまったく読めないのだけれど、おもしろい本はありますか?(でも読みたい、のだそう)
きわめて難問である。
興味があるものなら、(おもしろいと思えれば)読み進められるのではないか、と言ったが、
それが明確でない彼女にとってはあまり答えになっていないようだった。
その質問を受けて、いまはとある本を貸しているのだけれど、次の本として用意した本がかなりおもしろかった。

「美しい」ってなんだろう?―美術のすすめ (よりみちパン!セ 26)

「美しい」ってなんだろう?―美術のすすめ (よりみちパン!セ 26)

美容師として、職業に「美」なんてコトバがついちゃってることの宿命として、美術家(芸術家)が語る、
「美」の多様性に耳を傾けてほしい、と思い選んだ。
そして、自分が読んでいないようでは無責任だと思い、じっくりと読んでみた。


そのなかにフェルメールが教えてくれること、としてこんなことを言っている。

おおきくて迫力のあるものもすばらしい。
たくさんあってパワフルなものもすてきだ。
自分のことをしっかり相手に伝えるためにお話上手になることもたいせつなことだ。
しかし、そうでなくても、すばらしいものはある。
ちいさいから、いとおしいもの。
すこししかないから、ありがたいもの。
おとなしくも静かだから、すがすがしいもの。
こういうすばらしさもあるはずだ。

よのなか、おとなしくしていたら損で、自己主張をはっきりして、
相手よりも自分の方が先んじることをしないと、負けちゃうよ、という主張に対して、
「そんなことはないよ、おしゃべりが苦手なキミも大丈夫だよ」ということを
フェルメールは言っているような気がした。



『牛乳を注ぐ女』は去年東京に来たのだけれど、
これはあきらかに今回来た『手紙を書く婦人と召使い』よりもいい。


『牛乳を注ぐ女』は意味が感じ取れないからいい。
『手紙を書く婦人と召使い』はいろんなことが想像できちゃうからいまいち。
たとえば、黙々と牛乳を注ぐ女がいる。
一方、召使いはほくそ笑んでいる。
なぜほくそ笑んでいるのだろうか?
婦人が不倫相手に手紙ばかり書くからあきれているのだろうか?
今夜のデートを想像しているのだろうか?
窓の外でおもしろい光景が見られたからだろうか?


僕は普通ならイメージできることをよしとする。
でもフェルメールに関しては、そうさせることだけでもやかましく感じてしまう。
戦前の凛とした寡黙な女性をそこに見る、というわけでもないのだけれど。
(つまりヒラリークリントンフェルメールの対極に位置する、ということですね)



今回の作品は円熟期の引き算の引き算的ミニマリズムを感じられるものがあまりなかった。
それが少しばかり残念でならない。
ダヴィンチの『受胎告知』などに見る、圧倒的な存在感と比べることがよくないのだろうけれど、

人を立ち止まらせ、釘付けにするパワーを持った作品には出会えなかった。


とはいえ、今の科学の進歩には驚くことばかり。
絵の下にはこんなものを描いていたことがわかっている(人を描いたけど消した、であるとか)
という具合に、画家の試行錯誤がばれてしまう、というのもいいんだかわるいんだか。
かつて作家が原稿用紙に向かい合っていたときのゴミ箱をあさられることに等しいと思うと、
釈然としないのは僕だけだろうか。


でも光、という見えないもの(透明感)を描こうとする無茶が好き。
光、と言えば、ジェームズ・タレル
『陰影礼賛』も好き。
批評とは、AのとなりにBを置いてA'とすること、だとすると、フェルメールって日本の何なんだろう、
という意味のない問いかけが僕の頭の中をグルグル回っている。