光の館のほとんどは陰でできている

無事に管理美容師の講習会2日間にて「ノルウェイの森」上下巻読了。
左手に文庫本。
右側にテキストで、右手には蛍光ペン
7割方文字を追うことに集中しつつ、3割は講義の中の大事だよ、とか、テストにでる、とかいう
言葉に反応し、そちらの世界に戻り、また一段落すると、あちらの世界に行き、文字を追い続ける。
最後のレポートもテキストを見ながらやってよい、というルールだったので、アンダーラインと
付箋をつけたページをさらさらと見ながら解答することにより、所定時間30分のテストを3分にて終了。
すぐさま席を立ち、レポートを提出ののち退室。


ああ、なんという効率性。
二兎を追う者は二兎を得うるのだという好例となり、無意味な満足感に浸る。


そのまま1泊2日の社員旅行のため十日町にある光の館に直行。
http://www11.ocn.ne.jp/~jthikari/index.html
ここはジェームス・タレルの作品となっている。
晴れてさえいれば、屋根を開けることができ、そこにスクエアな空が美しく切り取られる。
そして日の出と日の入りの際には開口部をぐるりとLEDが照らすことによって
さまざまな表情の、あるいは風情の空を見ることができる。


人間はある色を知覚するときに、その色そのものだけを見ることはできない。
その周囲の色のとの対比のなかでしか判断することはできない。
ちょうど夕日が落ちきって深い群青色の空が切り取られたとき、その周りを青の補色である橙が取り囲むと
その群青はさらにその青さを増し、より鮮明に浮かびあがる。
光の背後に陰があるからこそ、それが光として存在しうるのであって、光は光としてのみ存在するわけではない。
美しい光を見たときに、僕らはその光の美しさをばかり言うが、もっとその陰の功績を考えてみたほうがよいのではないか。
これはあらゆる物事を見るときに必要な心構えである気がしてならない。


みんなで鍋を作って食べる。
僕が買ってきたかつおのたたきに馬路村のポン酢をかけて、あじのお刺身
をキレイに並べてもりもり食べる。
美味である。
疲れていたのかビールを2本ほど空けて、近くの温泉に浸かり、部屋に戻ると急速に睡魔が襲ってきて爆睡。
その後朝までの間に数人で〆張鶴の一升瓶が空っぽになったようで、翌朝起きあがれないスタッフがちらほら。
彼女らの回復を待つべく午前中は昨晩行った温泉の小部屋を借りて休息。
意気込んでへぎそばを食いに行くも頼んだ半分ほどしか食べられずお持ち帰りの容器をばんばんもらう。


度を超えること、と、度を超えすぎない、ということの間を見てもいつも霧がかかっている。
LEDが照らしてくれれば、みんながほどよく飲めるのに、無論そこは闇のなか。
おそらくそんな都合のいい「ほどよさ」などないんだろうね。