「誠実さ」の絵を描くとしたら、とある画家は口を開いた。

職場の近所の洋食屋さんのはなし。

メインディッシュを頼むとそれにはサラダとごはん、あるいはパンがついてくる。
すべてのメニューがそういうコースでできている。
例外はない。


その葉ものとキュウリだけで構成されるサラダのはなし。
それはきれいに洗われ、水切りされた葉っぱたちがつまった容器からひとつひとつ
ていねいにトングでちいさなボウルに入れられていく。
まるで画家が絵の具をカンバスに置いていくかのように、その料金に含まれている
(付け足しの)サラダはつくられていき、最後に白いドレッシングが控えめに配されて完成、となる。


それをいただく僕としては、それを逆回転するかのように、トングをフォークに持ち替え、
ていねいにひとつひとつ口に運ぶ、ということしかできない。
そうやってボウルはからっぽになり、かつてホーローの容器に入っていた葉っぱたちは
僕の胃の中に居場所を移し、満腹感を経由して幸福感を連れてくることとなる。


ぞんざいにあつかわれた皿はぞんざいに食べられ、
ていねいにあつかわれた皿はていねいに食される。


ここにはあたりまえの対称性が確かにある。


そして短縮されてはいるが、そのぶん濃縮された物語もまた、ある。