おいしいの感じ方のいくつか。

ぼくがおいしいと思えるものは「おいしい」と言えるのだろうか。
うん、言えると思う。
すくなくともそれはおいしくないはずだって誰かに言われたところでぼくの舌が意見を変えるはずはない。
だって、ぼくはいまここで、経験として感じていることだから。
なんびともそれを侵すことはことはできない。
たとえそれがいかに主観的なものであろうとも。


一方で「おいしい」の客観化、数値化への欲望はおわることがない。
ミシュランの☆が象徴的。
でもぼくはそれはそれでいいと思っている。
おいしいにはそういうヒエラルキーがたしかに存在してる。
階級社会からは距離をおく日本において、美食家のジャーゴンが庶民にとって価値あるものか、は
このさい置いておくとしようではないか。
いうまでもなく、ぼくも☆についたレストランに行ったことはない。
でもじぶんのなかで、ちっぽけなヒエラルキーがあることはたしかだ。



それとはずれた軸に「あのときの記憶を呼び起こす」というものがある。
こどもの頃に足繁く通った喫茶店のドーナツがおいしい、というような。
(あるいは、行ってもいないのになつかしさを感じるドーナツがある。たとえば、三条河原町の南東にある六曜社のドーナツであるとか)
案外そういうのって、今食べたらどうってことないドーナツだったりする。
だけど、おとなになって口にはこんだときの味覚が昔のそれをおいしいなぁと思いつつ食べてた記憶と
ピーンと一直線につながる。
そういう回路でおいしいを実感する場合、その思い出なき人が食べたそのときの味覚とはまったく違うものになりうるわけで。




そもそも僕らはある料理のそれそのものだけを味わうことはできるのだろうか。
とても評判のいいレストランであったり、料理の鉄人が自らつくった料理だと言われて出てきた皿を目の前にして
味わうまえに考えることになる。
これをおいしいと思えない自分は味のわからぬ者となってしまうではないか・・・。
もちろん「ようわからんッ!!」ということもできるだろうけれども。



あと誰と食べるか、どういう雰囲気の場所で食べるか、という軸もある。
これはおいしいものをいただく、ということは目的ではなく、手段である、と考えるとわかりやすい。
いかなる手段か。
たのしい時間を過ごすための、である。
気の合うひと、尊敬するひと、好意を寄せるひと・・・。
それがどれほどのおいしさのスパイスとなるかははかりしれないだろう。
おいしい料理そのものがたのしい時間を過ごすためのスパイスであるのだから、
おいしいかどうかなんて、どうでもいいとも言えなくもない。(ちょっと乱暴すぎるけど)


でもぼくはただただおいしくないものを食べたくないのだ。(美食家とかグルメとかではなくってね)
すっごくおいしいものでなくてもいいから、ていねいにつくられたものを口に運びたい。
ただそれだけだ。
でもそれが案外むつかしかったりするからこまるのだけれども。