ある出来事でそのすべてを判断されるのだとしたら。

たとえばランチというものには、飲食店における「お試し」のような意味合いがある。
1000円前後のランチをいただいておいしかったら夜も行ってみたい、ということを思うし、
お店側としてもそういう広告とか宣伝のような意味合いにおいてランチをリーズナブルに提供して
全体としての稼働率を上げ、売上を確保する、という仕方で利害が一致する。


それは旅館業においてもそう遠くないものがあり、
お昼ごはんをいただいてお風呂に入って、という日帰りメニューを通じて、飲食店におけるランチ、
つまり「お試し」をしてもらってもしよかったら泊まってみてほしいという要望をやんわりと伝えつつ、
チェックアウトの時刻からチェックインの時刻の売上的にゼロの時間に少しでも売上につなげる、ということを考える。


その日帰りプランに行ったときのこと。
あまりにびっくりしたのでここに記しておく。


たぶん連泊のお客様以外にお客さんは誰もいなかった。
スタッフの人はみんな休憩モードだった。
間の悪いときにアポなしで訪問したお客かのように、さえない居間に通された気分。
こちらが「こんな時間に、すいません」と言いたくなるような。
冷めきったお昼御膳。固すぎる茶わん蒸し。鮮度を感じないお刺身。
朝食のあまりがそのまま置かれていた、と言われても信じてしまいそうだ。
おかげさまでおなかはすいていた。
それでも残してしまうほどだった。
僕はそれほどに残すのを好む性分ではない。
のに、である。


バスタオルの用意はないとふつうの顔をして言う。
じゃ、それは前もって伝えていただけますか。そしたら持ってくるからさ。
予約を確かに頂戴した、という確認の電話をするレベルのおもてなしをするのであれば。
あるいはそれは自分たちの都合で、キャンセルをされたらたまらないという感情によってのみなされたとでもいうのですか。
だったら仕方ない。ぼくの目がふしあなだった、ということで反省しようではないか。


そう、ふしあな。。。
ウェブサイトと現実の旅館とのギャップをここまで実感したことはなかった。
うつくしすぎるウェブサイト。
古く掃除の行き届いてない旅館のあちらこちら。
かわいすぎるプリクラ写真と合コンで出会った・・・、というふさわしくない比喩を持ち出すまでもなく
ちょっとしただまされた感覚のようなものが到来する。
いや、見抜けなかった自分が至らなかったのだ、という解釈をせねば。
怒る気さえしない、あきれてしまう瞬間というものがある。
とすれば、あのときもそうだった。


それでもなんとかのいい宿100選とかに選ばれているのだから困ってしまう。
もちろんそれをあてにして、信用して訪れたわけではないのだけれど、
その選者たるひとはどこを見ているのだろうか、
と彼らの目にふしあながあることをイメージしてみる。
コンタクトを忘れた、とか。極度の寝不足であった、とか。
あるいはそのときだけ旅館が、不健康を自覚するおじさんが人間ドックまえの1週間だけお酒を控えるかのように、
なんらかの調整をした、とか。なーんて。


旅館ってホスピタリティを実感する究極的な形態だと思うから、
こういうことはほんとうに残念でならない。
うつくしすぎるウェブサイトにはみなさんお気をつけてくださいね。


ありのままの誠実さとはいかに尊いものか、ということを思い知った出来事。