地震の揺れは、灯火の揺れであり、生活の揺れ、となる

地震当日の夜、停電のまま闇の世界に入った柏崎の街を車で走る。
田舎の夜は街灯が明るく道路を照らすほどではないから、それそのものには違和感をもたなかった。
部屋の中の暗さも、夜型生活が日常的になるまえの、健康的な時代に戻ったと思えば、同じことだ。
玄関先にろうそくを並べ、その風景だけ切り取れば、まさにキャンドルナイト
あえて電気を消そう、ではなく、いまだ電気が来ることがない、なかでのその背景の違いが
うれしそうにも、かなしそうにも見えてくる。
車のなかで情報収集のためテレビを見ているこどもの顔が漆黒のなかでテレビのあかりに照らされ、
その笑顔が浮かび上がる。
案外、情報収集などではなく、笑いを誘うバラエティ番組でも見ていたのかもしれない。
というより、情報がある程度出尽くしたあとには、そういうふと笑みをこぼす瞬間のほうが必要なことなのだろう、と思う。


地震が起きた瞬間はどうやら金沢にいたようだ。
常に頭が揺れていて、地震にシンクロしていたのか、ただただ鈍感だったのか、
ほとんどそれに気づくことはなかった。
携帯に流れるニュース速報でまず地震があったことを知り、
車の中でNHKにチャンネルを合わせ、状況を確認する。
僕の住む燕市はたしか震度5強だった気がする。
21世紀美術館の隅の椅子に腰を下ろし、「新潟大丈夫?」の安否確認のメールに
「今、金沢にて生きています」と返信しようとするもなかなか返信できず。


「送信」というボタンを押し続けるのにも疲れたので、グレイソン・ペリー展「我が文明」をみる。
現代を風刺した言葉とビジュアルを色んな陶器に重ね合わせるように配し、ひとつの主張、あるいは批評を
そこに立ち上げる。
全部の意味なんてわかんないし、ま、意味なんてなくてもいいんだろうけど、雰囲気、というか質感は
けしてきらいではなかった。
ひろいスペースにそんな壺が並んでいたものだから、不謹慎ながら、地震が起きてこれらが
全部倒れて、割れてしまったら、その状態にこそ至上の批評性があるのかもしれないな、と思った。
もちろんそれぞれの解釈に答えなんかない、ということも含めてのはなしで。


帰ってくるのにもひと苦労だった。
上越ICから長岡JCまで通行止めだったので、北陸道にて上越まで行き、冒頭のような柏崎市街を通り抜け、
長岡も経由し、関越道の小千谷ICより高速復帰し、三条燕ICにて降りる。
総計4時間半のドライブで、通常の1.5倍かかってしまったが、もっと覚悟していたのでひと安心。


すぐに寝ればよいのに、ノアノアで4時半まで1コインならぬ1シート?でワインを飲みながら談笑。
これをよい休日と呼んでよいのかは、正直よくわからないが、翌日は不思議と眠くなかった。