わからないことは不快なことなの?

日曜日のたのしみ、と言えばなにか?
かつて、はずかしながら僕は、朝刊の書評欄に目を通すこと、であった。
だから、ろくに新聞を読みなどしないのに、地方紙のほかに朝日をとることにしていたのだ。


でも最近、高橋源一郎の書評も少なくなったし、山形浩生も書評委員じゃなくなっちゃったし、
あんまりたのしみというほどではなくなっていた。


書評はいずれも宣伝や紹介をひとつの機能にしているわけだけれど、
僕ら側から見ると、おもしろそうな本を探すための説明、で終わらずに
それを通したひとつの表現として成り立っているものがある。
本の要約的説明ではなくって、(もちろんすこしはそれもないとさっぱりなんのことかわかんないからね)
本のなかの考える仕方をその書評のなかに呼び込むような、少々アクロバティックな展開にどきどきしたものだ。


2007年7月22日の朝日新聞の読書欄においてノンフィクション作家の久田恵の書評はこんな書き出しから始まる。

むずかしい本である。


潔く気持ちよい断定である。


そして、それほどまでに難解な言説を批評的に読み解くことはどれほどの「知力」が求められるのだろうと
思うと眩暈を覚える、と書いたあと、最後はこんなふうに締めくくられる。

「分からなくっていい」を前提として本を楽しめる気楽さは、読者の特権である。


「分からなさ」の「心地よさ」を分かることの愉しみ、とはなんと幸せなことだろう。
ちなみにその著書は以下のもの、なのであるが。




思考のエシックス―反・方法主義論

思考のエシックス―反・方法主義論