映画「めがね」を観ながら思うに

なんともひとことで言えない映画である。
そりゃそうだ。
かつて村上龍が「この小説をひとことで言うとそうなりますか」と聞かれ、
ひとことで言えたら小説なんて書いてません、というようなことを言っていたのを
思い出した。


でも、あえて映画「めがね」のテーマをひとことで言うと、次のようになるように思う。


「めがね」とは、「見えないものを見えるようにするもの」ではなくって
「めがねでしか見えないものを見えるようにするもの」なのだ


僕は不勉強のおかげで目だけはよかったので、コンタクトをつけたこともないし、
ましてやめがねをかける必要もない。


だからめがねにちょっとしたあこがれがある。
なにか違う世界が見えそうな気がしたわけではないのだろうけれども。
やはり、かっこいいというあこがれがあったのかもしれない。
だから、だてめがね、なるものを買ったこともある。
似合わないのに、かなしいことである。


ま、僕のめがね談義はこのくらいにして
映画「めがね」に話を戻すと、
映画「かもめ食堂」同様ストーリーの起伏はほとんどなく、たんたんと進んでいく。
その平坦さは「かもめ」以上だとも思った。
ディテール(細部)の集合を燃料にしてストーリーをうごかしていくような、
だからこそ、ストーリーがわかるから飽きるなんてことのない、
ストーリーに支配されていないお話が立ち上がる。
風景の連続、というか、短編小説や詩のような印象の映画なのだ。


「たそがれる」ために旅にでる、というのはわかるひととわからないひとがいるだろう。
小林聡美も「たそがれるってどうしたらいいんですか?」と言っていたように。
観光地のような、「意味」があってしまっては、うまくたそがれられないのだ。
「なにもなくって、あるべきものだけがある」という状況こそが、
たそがれるためにはぴったりの場所であり
その象徴としての、ほどよく誠実な「朝ご飯」は
たそがれるためのエネルギーを蓄えるのに大切な要素として描かれている。
みんなで大きなテーブルに座って食べる、ということがその味を支えていることも含めて。


それにしても、いい意味でよくわからないことが多いこと、多いこと。
たとえば、もたいまさこ演じるサクラさんの存在、について。
彼女は何を意味してるんだろうか、と思いつつ、意味を探してはいけないよ、ということを言いたいのだろうか、
とも思いつつ、まるで村上春樹の小説に出てくる不可思議なんだけど愛らしいキャラクターみたいだ。
春になるとやってきて、みんなに一目置かれていて、人生で一番のかき氷をつくり、毎朝メルシー体操をし、雨が降るといなくなる。


彼女はいったいなんのメタファーなんだろう?


すべて意味で繋がることを、わかる、とするならば、わかる必要などないのかもしれない。
だから、あぁ不思議なこともあるなぁ、以上、とすればいいのかもしれない。
こんなふうにしてもう一回観たくなる。
そして謎を解決しようと思いつつ観て、いくつかの謎が解けると、また違う謎が浮かび上がる。
そして、また観たくなる。


あぁやっぱり説明できなかった。
ぜひぜひ観てくださいね。
観てみて、そのわからなさについて語り合おうじゃありませんか。


まずは下記サイトを御覧ください。
http://www.megane-movie.com/
絶対観たくなりますから。