未来への余裕としての空き地

paris-rabbit-san2007-11-28

午前11時「おへそのココチvol.2」でアロマティカの木下さんから
寄付してください、と言って預けられたお金に
ほんの少しお店から色をつけて、燕市長に寄付をしにいく。
天気の話からはじまり、あたりさわりのない世間話を経由して、
美容の現状と今後に何とか着地して、
記者さんたちのために、ぴたっと止まって渡しているところの写真を撮られた。
木下さんに「子供たちのために」ということを言い添えられていたので、
教育関係に使ってくださいね、と付け加えてその場を後にする。


そういえば、最近お店の事務所に本棚を買った。
デッドスペースにまるでオーダーメイドのようにぴったりとはまる組み立て式のやつだ。
僕の机の背後に僕の身長よりすこし高いくらいで、僕の肌の色よりすこし濃いめなかんじで
鎮座している。
もし地震が来たら上から本が降ってくる可能性はかなりのものなのだけれど、
まぁ雨でも雪でもなく、本が降ってきてやられてしまうのであれば、本望としようではないか。


バラバラに散らばっていた本を並べても、かなりのスペースがあるから、まだまだ買えるんだ、
と思いつつ、そこに何が並ぶのかを想像するだけでうれしくなってくる。
これはいっぱい食べて、終盤デザートを残すのみになったにもかかわらず、ここを出てから
まだピエールマルコリー二のアイスクリームが食べられるなぁと思うことにそう遠くはない。
(別にスタバのキャラメルフラペチーノでもよいし、好きな別腹メニューを代入ください)


これは未来に対する開かれた可能性の大きさによって、その未来が確定しなくても
喜びを感じるのではないか、ということだ。


つまり、自分の中にある分をすべて詰め込むのではなくって、欲張りすぎずにあえて空白を作っておき
来るべき未来にふいに現れるだろう「なにか」を取り込む準備をしておく必要がある。
それを怠ってしまうと、その「なにか」に対する感度も弱まってしまうだろう。


街だってそうだ、都市としての機能があればあるほど公園としてのスペースが必要になってくる。
そういう余裕のない街に住みたいというひとは少数派となるに違いない。


ムダとは無駄ではなく、ある側面で「ムダ」という意義があるし、
何もないと思われるところには「無」がある、ということはそれとして大きな意味を持ちうる。