クルクルパーになりたい

paris-rabbit-san2007-11-29

ルミノさんから活けていただいてる花で
なんだかクルクルパーみたいなやつがやってきた。
まるでオアシスという脳におさまりきれない発想が
溢れ出してきているような雰囲気がそこにはあった。


最近茂木健一郎ケンブリッジ大学のトリニティカレッジにいる人間を称して
「クルクルパー」と呼んでいることが思い出された。
たのしそうに、それでいて敬意を込めて「クルクルパー」と呼ぶ。
ある大学のまたある集団によってノーベル賞が30人も出ていて、
あいさつもほどほどに核心的議論が始まる、
そういう場にかつて自分が存在したことが今の彼を基礎づけているという。


ふつうの人を円の中心に置いたときに、そこからの距離が圧倒的にある人であり、
それをビジネス的な費用対効果という向かい風をもろともせずに、
さらに中心から離れるべく遠くに遠くに走り続ける人でもある、
に該当する人はかなりの稀少種と言えるような気がする。


そのキャンパスでは一流の研究者の出で立ちがホームレスと大差ないというかたち存在し、
さらに、それこそがクールではないかと思う、
という、今信じられている価値観を歪ませてしまう磁場が地下深くに
埋まっているのかもしれない。
もちろん、歪んでいるのがそれ以外のところであって、
そこの磁場こそが適正な磁力が働いている数少ない場所なのだ、と
言えないことは決して、ないわけだけれど・・・。


ドキドキするほどに卓越した知性を目の前にしたときに、それを「クルクルパー」という愛らしい言葉で形容する、と
とてつもなくかわいらしく離したくないほどの存在に対して、「あのアホみたいな子なんだよ」と紹介する、ということは
かなり近いのではないか。


それは、好意的な言葉の延長線上にはそれらを適切に形容する言葉は用意されておらず、
逆に世の中でネガティブに使われている言葉にこそその真意を伝える言葉として活用可能である、
ということなのかもしれない、と思った。


やはりすべては直線の両端ではなくって、その両端をくっつけたような円としてあるんだよ、きっと。
そういえば、クルクルパーのクルクルも円形の連続で構成されているしね。