このリンゴはあのリンゴではない、ということ

paris-rabbit-san2007-12-09

ルミノさんから密がたっぷり詰まった、とてもとてもおいしいリンゴをいただいた。
密と果実の比率が3:7くらいで、まるで海と陸みたいなバランスだった。
それも、箱に入った5つのリンゴのうち3つをいただいた、ということで
残りの1つはノアノアさんのもとに行き、もう1つはルミノさん自身のもとに残ったらしい。


こういうリンゴを食べると、僕にとってリンゴが好きかどうか?という質問をされたときに
このリンゴをリンゴ代表として考えていいのだろうかという逡巡がある。
リンゴ代表をリンゴの味としての最高点で考えればいいのか、
これまで食べてきたリンゴのアベレージとして考えればいいのか、がよくわからないのである。


たとえば、今までで食べた最高においしいリンゴをリンゴの代表と考えると、
ただただ、「リンゴとイチゴどっちが好きなんだい」と聞かれたら、
イチゴ、と答える人が、あのリンゴだったらリンゴがいいな、という具合に
答えが変わる、とすると話がややこしくなって、どっち?という問いに
正確に答えられている気がしない。


そうなると、何が好き?なんて問いは意味をなさなくなってしまって、
正しい回答は「おいしいものが好きだから、おいしいものがおいしい」という
なんとも釈然としない同語反復になってしまう。


リンゴかイチゴかメロンかなんてことはもはやどうでもいいことなのだよ。
好きとそのものの属性はあんまり関係のないことなのかもしれない。


リンゴという言葉は1つの言葉としてあるわけだけれども、
リンゴと言って思い浮かべるリンゴは
ひとりひとりまったく違うといっていい。
それをあえてリンゴという言葉に決めたわけだ。
木になって、赤くって、熟すと下に落ちるモノ、という属性においてね。


でも、僕はリンゴが好きなんだ、と言い、
それを聞いた人が、ああリンゴが好きなのね、と言ったとしても
その「リンゴ」はどこまでも違うリンゴであることには疑いがないし、
それでわかった気になっちゃいけないのではないの。


さっきの例で言えば、僕がリンゴが好きだと言い、ある人がイチゴが好きだと言ったときに
ある意味で僕にとってのリンゴ=ある人にとってのイチゴとなり
むしろ(僕にとっての)リンゴ≠(ある人にとっての)リンゴ、
となるのではないかという気がしてきた。


好きと思わせる、という共通性のほうが属性としての共通性を上回ることはありえる、という風に考えると
色んなものが規定の言葉としての定義から解放されて、楽しくなっていく予感がしてくる。


明日から、どんなくだものが好き?と聞かれたら、
できるかぎり農薬を使わないで、食べる人の幸せそうな笑顔を想像して作られたくだものが好きだな、
と答えることにしよう。