アンチ「アンチエイジング」論

お客様の誕生日にはお手紙をお出しするようにしている。
そこには誕生日月のご来店で1000円オフさせていただきます、とある。
そういう方のお会計の際に、僕らは「おめでとうございます、1000円お引きいたしますね」
と言い添えた上で、総合計額をお客様にお伝えする。
多くのお客様は、いやいやおめでたくなんかないわ、とか、誰も祝ってなんかくれないもの
とすこし照れながら、財布を手にされ、お会計を済ませる。


僕も誕生日だからうれしい、ということが最近あんまりなくなった。
なんでだろう、と思う。
何ももらえなくなったからかな、と思うが、きっとそういうことではないような気がする。
かといって、別に年齢を積み重ねていくことが、若さがなくなっていくこととだ
と思うからかなしい、ということもない。


若さというものはなくなってからその大切さに気づく部類の事柄であって
まさか水がガソリンより高くなったり、二酸化炭素の排出権が高額で取引される世の中
になるなんて誰が想像した?
1972年にローマクラブが『成長の限界』で地球が無限に続くという前提を変えていかなければ
100年と持たんよ、という警鐘を鳴らして、30年とちょっとでサスティナブル(持続可能性)
ということばが身近なものになるのだから時間の流れ方はすぐに変化する。


それを持つときには今後も持ち続けられると、その価値を過小評価し、
持たなくなるとそれは永遠に取り戻すことができないとばかりに過大評価する部類のもの
なぁに?というなぞなぞを出してみる。
答えは1つに絞りきれるものではないのかもしれないが、代表的な答えのひとつが
若さであり、時間であるのではないか。
これは本当に取り返せるものではない。
離婚した奥さんであれば、再婚しましょう、そうしましょう、
ということで取り戻せるんだろうけれど・・・。(このときは過去の奥さんでないことに意味がある)
僕も子どもの頃の夏休みにいかにぼーっとしている時間が長かったことか、と思う。
あのときに岩波文庫漱石をかたっぱしから読破するとかしてたら人生変わったかもな、と
へんてこな空想にふけったりする。(案外そういう小さな入力が大きな出力となるのだよ)
もちろん今漱石を読むことはできても、あのときの僕として漱石を読むことは逆立ちしたってできやしない。


時間もお金もただ持っていることに取り立てて意味はない。
たくさんの時間やお金を注ぎ込むだけ価値ある対象を見つけ、
それに没頭し続けるような行為をもって初めて時間やお金は
光り輝きはじめる。
逆にそういうことを持たなければ、
若さの付加価値レートは低水準で推移せざるをえないだろう。


とか言うと、
若さとは可能性であり、そのものに価値などないに等しい、
というのは詭弁ではないかと言われてしまいそうだ。
確かに、造形的な美しさを幸運にも両親から継承し、
端正な顔立ち、スタイルを持ち合わせている人にとっては
ある時期にとてつもない輝きを放つことはあり得る話ではあると思う。
ただ長い人生で、若さそのものを手段ではなく価値(目的)そのものとして使っていくことが
得策であるのかどうなのか。


問題は年を重ねていくなかで失われていく美貌や運動神経に代表される若々しさというものの代わりに
どんな魅力や能力が増えていっているのか、というところにある。
ただここで失うものを大きく見て、増えているものを小さく見ていては、いつになっても
年を重ねることをポジティブには受け止められないだろう。
アンチエイジング」として年齢は抗うものである、という固定観念によって。
それは過去を大きく見て、未来を小さく見ることにつながり、今もこうしているうちに
未来が現在に繰り込まれていき、膨大な未来を目の前にしている自分をいい方向に
連れて行ってはくれない。


もっと今までの過去にいい解釈(あるいは訳)がつけられる自分でありたいと思う。
それが後付けとか結果論だとか言われても、少なくとも生きてきた経験の掛け合わせこそが
創造性の源泉であるわけだし、経験が多いことは発想の材料をたくさん持っているということであるとすれば、
僕はますます年を重ねることが楽しみになってくる。


来年は30歳になる大事な年。
あいつ30なのにあんなことやってるよ、バカじゃないの、と言われるくらいの
子どもっぽさを持ちながら年齢を重ね、年齢に付随するイメージみたいなのをぶっ壊してやればいいのだ。
年齢なんかまったく関係ない。
そこにどんな自分がいるか、ただそれだけだ。