幅と奥行き

小杉真二さんのクリスマスピアノコンサートに足を運ぶ。
以前にノアノアで今回のコンサートの主催者である薄田さん夫妻と小杉さんが
飲まれていた席にたまたま僕が出くわし、
すこしの間お話をさせていただいていたことがあった。
そのときに薄田さんが今度コンサートをやるんできてくださいね、と言っていて
まさにそれが今日だったので、僕はなんとしても聞いてみたかった。


なぜか最前列の席が空いていたので、そこに座り、
ゆっくりと小杉さんのピアノに耳を傾けた。
「家族の幸せ」というテーマでもあったので、
みんながある程度聞き覚えのある、それでいて心地よい旋律を奏でてくれていた。


ふと思った。


音楽というのはある種の空間なのではないか、と。


僕には奥行きと幅からなる、部屋のような感じが思い浮かんだのだ。


弾くことそのものが難解な楽曲は、解釈の表現を入れ込みづらい、
という意味において奥行き(縦軸)を出しにくい。
いい意味でみんなにとって聞きやすい、わかりやすい楽曲として差し出すことを
「幅」(横軸)がある、と解釈すれば、そこに空間らしきものが見えてきやしないだろうか。


そう考えると、今回のコンサートはあえて「奥行き」を手前にもってきて、「幅」で聞かせるもの
であったと言えるかもしれない。


弾ききることさえ困難な楽曲に解釈の風を吹かせることはなかなかできやしない。
弾くということが身体に馴染んでいる楽曲であれば、その背景を考慮した色づけを奏者自身がすることはできよう。


そこには、僕らがその細部に込めた思いを理解できるかどうかはわからないが、
わかってほしいという気持ちが感じられたし、
あるいは、わかるわからないではなく、自分としてその空間に一番ふさわしい空気を
どうにかして立ち上げようという
妥協なき渾身の演奏が確かにそこにあった。


なぜ奥行きと幅ということを考えたかというと、
伊丹十三のテレビ番組を見ていて、そこで言われていた話なのだけれど、
伊丹監督は映画制作の際に低予算でなんとかするための工夫のひとつに
奥行きをうまく使う、ということを言っていた。
横に長い、つまり幅のある画面にすると、近くのものがすべて写り込み、細部を意識するあまりお金がかかるが、
奥行きはカメラが手前にピントを合わせることによって、奥がぼけて細部が写り込む余地がない、と言う。
そうすることで、低予算と広い空間の両方を実現していた、ということらしい。


どういう空間構成だとそこに住む人たち(聞き手)が気持ちよく過ごせるのか、ということを考えると、
建築も音楽も映画も、およそデザインと呼ばれるものは圧倒的なとてつもない空間を作り上げるのではなくて、
あくまでも受け手への配慮、理解、というやさしさが不可欠であるのだろう。
そうやって受け手にとっての圧倒的心地よさを目指すのだ。


そういう意味において間口を広めにとって身近なクラシックを感じさせようというやさしさと
そのなかでなんとかひとつの解釈としての表現を細部に宿らせようというやさしさとが
渾然一体となっていた。


僕はそこに小杉さんのピアニストとしての矜持を見た気がした。


それにしても、ああいう目には見えない空間という名の演奏を作り上げることができるとは
なんてステキなことなのだろう。
そして、ピアノとクリスマスは、にぎやかさともの悲しさからできている、という意味で
とても近いものに感じた。