箱根の山には何がある?

遅ればせながらあけましておめでとうございます。


日本海側にいると、初日の出を拝めるということがあまりないのだけれど、
箱根駅伝を見ていると、それをもって初日の出を見たかのような、新年にふさわしい光景に出会う。


別にとりたててひいきにしている大学があるわけではない。
ただ、優勝を目指すというスタンダードな志向以外にも、
おのおのの大学なりの目指すべきものを持ちつつ、
ひとつでも高い順位で、1秒でも早くたすきを渡したいという志向が
この箱根駅伝という、いち関東圏における大学駅伝レースをものすごい高みに押し上げている。


それは、次に走るひとへの貯金(タイム)という形をとることになる。
自分が貯金した分は他人にしか引き出すことはできないし、
自分がした借金は他人にしか返すことができない。
1区間走り終わったらもはや自分が挽回することができず、他人にがんばってもらうしかない。
そこにはほんとうの意味での祈りに似た声がけ、あるいは、応援、というものが現れるのだろう。


もう一度繰り返す。
次に走るひとへの貯金という形態をとる、ということ。
これは来年へのシード権というかたちで、もうひとつ次数の高い「次に走るひと」にも適用される。


この複数の次元での貯金の受け渡しが錯綜するとき、そこに多くのドラマを僕たちは見ることができる。


個としての成果とチームとしての成果が対立するとき、個はそれをいかに受け止めるのか?



例えば、3年連続区間賞を取った東海大学の佐藤くんが10区の荒川くんが棄権し、
チームが記録なしとなり、来年のシード権すら失ったときにどういう感情が湧き起こるのか。
また、前年度優勝の順天堂大学が5区で脱水症状になったとき、
監督はV2の野望と来年のシード権に対して小野くんという選手の将来を優先するという決断を
往路のゴール目前でする心持ちについて。


レースの結果なんかよりも学生の状態を優先させるのは、当たり前といえば当たり前だが、
ある意味、極限まで追い込んだうえでレースに合わせてきた学生にとって最後の箱根を走りきることが
いかほどに重要なことかは想像できないほどではないかと思う。


ああいう連帯感を見ていると、一流企業が体育会系スポーツに大学生活を捧げたヤツを
取りたがる気持ちがわかるような気がする。
少なくとも、僕にはああいったことを体験した記憶もないし、もちろんそれを通した成長もない。
会社、というかひとつの集団があそこまでの明確な目標を持ち、それに果敢に取り組めれば、
順位はどうあれ、成果は必ずついてくる。


ちなみに、東海大の佐藤くんは
「仕方ない。すべてを尽くしてこの結果。それは受け止めたい。区間新のうれしさとかはない」
と、唇をかんだ、という。


個と集団が一体化し、個<集団という意識がそこに見て取れる。
目指すべき境地はこんなところにあるのかもしれない。


では、彼らにとっての「箱根優勝」は僕らにとっての何なのだろう。
それをこれから考えることにしたい、と思う。