「地域」的、を考える

爆弾低気圧というもののおかげで、1日中積雪はないものの
粉雪が渦を巻いて縦横無尽に駆けめぐり続ける。
夜の道路はしっかり冷え切ったせいで、アイスリンクに優とも劣らない
ツルツルの状態に仕上がっている。


夜8時過ぎ、ルミノさんとノアノアさんとサカウエさんとで
長岡の「トラットリア ラ・スカーラ」に足を運ぶ。
http://www.lascala.jp/


地場の食材とイタリア料理という手法の融合。
すべての食材に産地がつき、イタリアの手法に固執することなく、
ときにフレンチ的、日本的アプローチで素材の良さをそこなわない仕方で
皿のうえに作り上げていく。
空間、料理にある種の洗練を見いだすことはできないが、
洗練はときに人を排除するストイックさと冷たさをともなう。
長岡の寒空の下では、装飾的、意匠的な空間で、華やかなお皿を眺めたいだろう
という配慮はなるほどもっともなことであろう。
そこには南欧のポップな雰囲気で老若男女が心地よくワインを傾けながら
存分に料理に舌鼓を打つことができる貴重な場所がある。

イタリアは田舎に行くと、いいレストランがあり そんなレストランを目指した。


と五十嵐オーナーシェフは言う。
なぜ日本はそういう構造にないのだろう。(僕が無知なだけで、あるいは、あるのだろうか)
ミシュランは東京に8つの三ツ星をもたらしたが、地方は黙殺された。
都市部には料理の味を、その違いを解する者が集まり、彼らの一部は
それに惜しみない賛辞とお金を届け、地方で作られた最高の食材は市場原理の名の下に
そこに全国各地からまるで参勤交代のごとく集結する。
地方の人が方言を捨て、標準語なるものを話すようになることと、
都市的な要素を含んだ標準モデルとしてのファミレスが全国を席巻することは、
その時代を同じくしたように思う。
地方がその地方ならでは、という要素を軽視したとき、そこにファミレスが入ってきて、
地方ならではのお店ははからずも苦戦を強いられ、お客様の変化に合わせる、という
目的で、その地方性を少しずつ手放していったのではないか。


地域性という言葉を僕は、
「この地域でそれは理解されない、されたとてほんの一部の人にすぎない」
というふうにネガティブな要素で捉えてしまいがちだ。
つまり高い価値観を解する僕ら、それを理解しない地域の多数派、
なぜこの地域はダメなんだろう、という具合に。
しかし、かつて地域にはもっとポジティブな特色があり、
味に関しては田舎の人のほうがうるさい
ということがあったように思う。
そう、もっと地域に対してそういうポジティブさを見いだしていきたい。
となるとさっきの道筋を逆に戻るように方言の復権が必要なのかもしれない。


日本はアメリカに追いつけ追い越せでやってきて、地方は東京に少しでも追いつこう
という思いでやってきて、急に東京的である地方が苦戦し、
そこから距離をおけていた地方に雲間から日が差してくるとは、なんとも皮肉なことか。
それを思うと、1982年に上越新幹線が開通したことは
新潟にとって本当にいいことだったのであろうか。
東京には行きやすくなったが、東京から来る人は決して多くない。
上越新幹線から遅れること、28年。
2014年に北陸新幹線が開通予定となっている。
年間67万人の観光客数の佐渡。(平成17年)
年間140万人の入場者数の金沢21世紀美術館
この状況を僕らはどんなふうに受け止めればいいのだろうか?


ねぇ、角栄の旦那、あのだみ声で教えてくださいよ。