触媒のように

言葉は左脳が紡ぎ出し、左脳で解釈する。
写真は右脳でシャッターが切られ、右脳で解釈される。


もちろん話はそんなに簡単ではないし、
自分で左脳が働いてるのか、右脳なのか、
判断できるわけでもない。
本当のところは両方がシグナルを出し合って
ピコピコピコピコやりあってなんらかの印象をもつことになる。


でも直感というのは駅を通過する特急列車のよう。



それに比べて論理は各駅停車で進む。



各駅停車はあきちゃうよね。



がったんごっとん、がったんごっとん。



車窓に見える景色より、早く目的地に着くこと。



各駅停車の車掌はよかれと思って説明する。



停車駅とその通過時刻をお知らせします。



うんぬんかんぬん・・・。



各駅停車の車掌はこう言われる。



で、結局目的地にはいつ着くんだい?



各駅停車「コトバ号」はいつもつらい思いをする。



彼は言う、ものごとには順序ってものがあるよ、と。



こんなふうに文と文のあいだを空けると、すこし右脳に届きやすくなる気がする。
余白は読み手の右脳の働きを活発にしてくれるから。
そう、なにかをイメージしてくれるのだ。
余白がないと、イメージなく、言葉だけが積み重なっていく。
きれいなミルフィーユのようにパイのあいだにカスタードが入らないと、
パイパイパイパイパイ・・・となってしまうし、
そうするとパイが歯に挟まりやすくなるし、もうちょっと甘さがほしいなぁと
思うと思うからできるかぎりよしたほうがいい。
言葉の連続でも豊かなイメージを作り出してくれる人(パイを歯に挟めずにきれいに飲み込める人)
もいるかもしれないけど、それは少数のなかの少数と思った方がいいように思う。


とりとめのないぼやきはこの辺にしますが、
最近よくしてくれている方の写真ブログがとても伝達力があるなぁ、と思っているのです。


「ツッカーの裏部屋」
http://tsucker.exblog.jp/


考え抜かれた写真に少量のコトバ。
コトバは頭のなかのイメージを作ることをを手助けするためだけの存在するような。
そういう一歩引いて補佐的にコトバを扱うその作法にとても好感を持つのです。


特に
http://tsucker.exblog.jp/8195394/
はお子さんの運動会のお話なのですが、
そこにある


全速力で走る人を久し振りに見ました。


仲間を必死で応援する人を久しぶりに見ました。


というような一説にいろいろと考えさせられるのです。
(どう考えさせられるかは、また後日、ということで)


どれだけ読み手が何かを思いついたり、イメージしたりする助けとなりうるか、
という基準がそのコトバの価値である気がするのです。
大盛りのごはんのようにそれだけ満腹にさせるような
説明的でありすぎることへの自制を指摘されているように思うのです。


内容物そのものよりも触媒となること。
今の僕に必要なことはそういうことなのですな。おそらく。


補足
「触媒」は英語で「catalyst
1,(化学)触媒
2,事態を引き起こすもの、きっかけ、刺激
3,話(熱情、活力など)によって人を友好的(情熱的、活動的)にさせる人
ランダムハウス英和大辞典)


まさに3番目の意味なのだよ。まさに。