そうそうなれないからこそ、必死、はすごい。

ごくごくたまに近くの体育館のランニングコースを走る。
かつてはすぐに全力で走れた。
身体が全力を出す準備を常にやっていた、ということなのか、
ただの向こう見ずでたまたまケガをしなかっただけ、なのかはよくわからない。


最近は全力で走るための準備を必要とする。
ゆっくりと20分ほど走り、念入りなストレッチをすると、
やっと全力の80%ほどで走る準備が整う。


年のせいにはしたくないのだけれど、
少なくとも、何も運動しない、ということを無意識に繰り返してきたこと
の意味に気づかされる。
動けるはずだ、という信号を出す頭と、いやいや無理だってば、と反応で答える身体。
頭と身体の乖離現象か、ただ過度に高い自己評価か、あるいはそのどちらもか。


先日の話のつづき。
http://tsucker.exblog.jp/8195394/

全速力で走る人を久し振りに見ました。


仲間を必死で応援する人を久しぶりに見ました。


僕の最近考えた会社の方向性(信条と理念)にぴたっとあてはまった。


『信条』
一生懸命生きて、くたくたになって寝よう
そういうひとりひとりの本気がこの世界を熱くする


『理念』
お互いがお互いについての幸せを考える関係でありたい


最近、あなたは仲間を必死で応援しましたか?
周囲の人の喜びを自分のことのように感じられましたか?


僕はおそらくしていない。できていない。
たとえしていたとしても、全然必死、じゃない。
必死、とは、死を覚悟して全力を尽くすこと、とある
(精選版 日本国語大辞典より)


マニュアル的な方法論よりもよほど必死になることが最善の方法論であることを
教えられる。


ただ問題はまた必死になるための方法論をマニュアル的に探すかもしれないこと。


人は案外つよく、しぶとい。
そう簡単に、必死、になれるわけがない。
なれないからこそ、最善の方法論たりうる。