古道具坂田に行き、白についてお話をする。

このGWに千葉県にある「as it is」というちいさな美術館に足を運んだことは以前ここに記した。

http://d.hatena.ne.jp/paris-rabbit-san/20080507
その美術館を開館された坂田和實(SAKATA KAZUMI)さんは基本的に
東京は目白にある「古道具坂田」におられる。
彼は「芸術新潮」に連載したものを編んだ「ひとりよがりのものさし」というステキな書物の著者でもあるが
ご存じでしたか?

ひとりよがりのものさし

ひとりよがりのものさし


余談が過ぎたので本題に戻り、急いで山手線に乗り込み、
目白駅で降りて、その「古道具坂田」に行く、としよう。


引き戸をガラガラと開けてあまり音をたてないように中に入る。
そこには「用途に忠実な日常工芸品」が時間という触媒を得て、美に昇華する具体例が
所狭しと陳列されていた。
時間を経て、junkと見るか、antiqueと見るか、には色んな基準が存在しうる。


一通り見させていただいてから少しばかりお話をする。
白い欠けた皿に80,000円という値札が付いていたので、
「こういうのを買う方は飾ったりされるんですか?」と聞くと、
「いやいやもちろん使いますよ、私もほとんどが欠けた皿にトーストを載せて
朝食のときに使っていますから」と坂田さん。
続けて「こういうのはほとんど発掘するんです。
割れたり欠けたりしていないものはないんです。
それを持ち帰って金接ぎしてもらってここに並ぶんです」と言う。
今年もデルフトに行って発掘してきたのだそう。
ちなみにデルフトはwikiで以下のように説明されている

17世紀、そこにオランダ東インド会社を通じて中国から磁器が伝わったことがきっかけとなり、
独特の陶器が発展、生産が行われた。青を用いて彩色され、デルフトブルーと呼ばれている。
生産規模自体は縮小したものの今日でもデルフト焼として知られる。

そのデルフトブルーではなく、白のプレート。
白というのは庶民が使うものだからなかなか残っていないのだという。
美しい色彩や紋様が入っているものは貴族階級が使っていたものだからきちんと保管されている
ことが少なくなくのだけれどね、とも言っていた。
かつて白のプレートを探すのだ、と現地の専門家に言うと、白のどこがいいのだ、
日本人の美意識はさっぱりわからないね、というふうに、
そのうつくしさに対して理解のかけらも示さなかったのにも関わらず、
もう半年後には大手の業者ががっさりと買い漁っていき、値段が上がっていくのだそうだ。
そうなってしまってはなかなか自分で買うこともできないから、次、次、という具合に、
あらたに坂田さんは時間を経たものに独自の補助線を引き、うつくしさを見いだしていくのだ。
日本的美意識の特異性とはなんなのでしょうね、という話をする。
それは白の多様性というところに着地したような気がする。


ちょうど白について原研哉さんが書かれた「白」を読んでいるところで、
そこにはこんな文章がある。

白

白があるのではない。
白いと感じさせる感受性があるのだ。
だから白を探してはいけない。
白いと感じる感じ方を探るのだ。
白という感受性を探ることによって、僕らは普通の白よりも
もう少し白い白に意識を通わせることができるようになる。
そして日本の文化の中に、驚くべき多様さで織り込まれている白に気づくことができる。
静けさや空白の言葉が分かるようになり、
そこに滞在する意味を聞き分けられるようになる。
白に気を通わせることで世界は光を増し陰翳の度を深めるのである。

(第1章「白の発見」2頁より)


僕は何度か、それは原研哉さんが最近お出しになった「白」という本にもありましたよね、
と聞きそうになったが、それはどうでもよいことのように思われたのでよした。
道は違えどばったりと、あるいは、必然のように巡り会うことはあるものだ。


そんなこんなで2時間くらい滞在した。
お茶を出していただき、素人のたわいのない質問にも丁寧に答えてくれた。
変な例えで恐縮だが、もし古道具屋に「ヒト」というコーナーがあるとすれば、
坂田さん自身も自分の美意識で選ばれてこの場所に並びうる人間であろうな、と強く思った。
モノもヒトもひとつの美意識に貫かれている静謐で濃密な空間だった。
何も買わずに失礼してしまったことが悔やまれるので、再訪したときには坂田さんの眼を
通過したものをぜひ手元に置けるようにしたいものだ。


お店の前に出ると、自転車で通り過ぎる学生や歩いて下校する小学生の笑い声が聞こえてきた。
あっちの世界からこっちの世界に戻ってきた、そんな感覚だった。