引っ越し祝いに名刺を渡そうと

とある友人が引っ越しをした。


とはいうものの、昔から住む家を2世帯住宅に造り替えての引っ越しであるから、
遠方に行くとかそういう類のものではない。
引っ越し祝いとはその新居にて使うだろうものを選ぶというのが慣例、というか常識だろうけれど、
非常識な僕は引っ越し祝いに「名刺」を選んだ。
それも良質な紙に、余白をたいせつにしつつ、宋朝体を配し、活版印刷という一風変わったものを。
家庭へのお祝いではなく、僕の同級生でもある本人にのみ宛てられた贈り物となってしまった。
というのも、先代がまだまだ現役とはいえ、家業を継ぎながら名刺を持っていない
という事実にびっくりしてしまったものだから、新居にて使うだろうものよりも優先事項である
という配慮からの選択であった。


その引っ越し祝いには解説なるもの、あるいは手紙と言っていいものを添付しないと、
彼はこの僕の一種変わった奇怪ともとれる行動を理解することはできないだろうから、
以下にその手紙の原案を書いてみた。


手紙など、年賀状以外送ったことがないから、かなり書く方も、おそらくもらう方も
しっくりこないかもしれないのだけれど、
逆に言えばこういうきっかけがあったことを吉として取り組んでみることを決意した。
これを読まれた数少ない方に添削なぞしていただければ幸いと思い、ここにその原案を公開する。





親愛なる二代目に向けて


美容師には「技術」「人間性」「センス」の3つの力が必要だという。
これは美容師に限った話ではなく、料理人でも変わらないことであると思っている。
端的に言おう。
僕は君がその「センス」というものを持っているということが疑わしい、と思っている。
逆に言えば、「技術」「人間性」については現時点では何ら問題がない、とも言っている。
これは大いなる「褒め」である。つまり喜ぶところである。
くれぐれも間違えないでほしい。
そして、まぁそう気を悪くせずに読み進めてほしい。


先日こんな話を聞いた。
とある京都に住む若い庭師は良質な紙に美しく配された文字の名刺」を
老舗の骨董屋の主人に渡したところ、その主人はいたく感動されたという。


こんなに美しい名刺はもらったことがない、と。


彼は小さな名刺という平面から浮かび上がる美意識を見ることによって、
その庭師がつくる「庭」にいかなる美意識が宿るか、を瞬時に想像したのだろう。
その主人は近しい庭を持つ知人を彼に紹介し、ひとつのつながりができた。
またその知人に名刺を渡し、また知人は同じようにその名刺に感銘を受け、
自分の庭を若い庭師に任せてみることに決めた。


当初庭師はとっておきの名刺、ということで毎度その名刺を渡すことは考えていなかった。
もう少し安価な名刺とその美しい名刺を場面に応じて使い分けようと思っていた。
しかしながら、その一件はそれでとどまらず、さらなるその知人へと紹介されていった。
もちろん紹介されるときにはあまりにも美しい名刺を持つ庭師、
というかたちがそのほとんどだったため、
美しい名刺以外を渡すわけにはいかなくなってしまったのだという。
まだまだ若い庭師にとって1枚500円の費用はかなりのものだった。


だが彼はそれによって普段会えない人と巡り会い、いくつかの仕事を手にすることができた。
重く閉ざされている扉は何十万出したところで同じように開くことはないのだが、
たかだか500円の名刺がその鍵となろうとは誰が想像しただろうか。
もちろんこうなったからこそ、たかだか、と言えるわけではあるが。




多くの人はこういうセンスにそこまでの共感を示さないだろう。
ただ、本当にもののわかる人にはそのセンスに反応せずにはいられないだろうし、
それによって関係性の距離が急速に縮まることがありうる、ということだ。
一部のそのようなお客様に支持していただけるということは、その向こう側にいる
だろう同じようなお客様への足がかりともなり得るだろう。


そのくらい名刺というものは雄弁に語りうるものであることに意識的であってほしいと思う。
そういう願いから引っ越し祝いにこれを選んだ。


名刺とは基本的に初対面のときにしか渡すことはできない。
その出会いとは関係性の誕生であり、人間の誕生日とは違って出会いから2年目を祝う、
などということは付き合い始めの恋人同士でもなければありえないだろう。
そういう意味に於いて、一生に一回の大事な瞬間ということもできる。
つまり名刺がない、なんてのは寝言以下であり、
これから多くの出会いを期待する人にとってありえないことなのだ。




座敷にて会食をしている社長に料理人としてきちんと挨拶をする。
その場ではいかにビジネスの世界から離れていようと、その世界での作法に従ったあいさつをする。
郷に入っては郷に従う。(これは僕以上にわかっているはずだ)
自分の名前を名乗り、その美しい名刺を差し出す。
私は美意識で仕事をしています。
美しく、美味しい料理をつくり、心地よい時間を過ごしていただくために。
僕は名刺にそう語ってほしくて、書体を含めたデザインを選んだ。
100枚の名刺を「きちんと」渡し終わった後におまえがいかに多くのお客様と深い関係性を築き、
その名刺の美しさに負けない数多くの「皿」を仕上げるに至っているか、を心から楽しみにしている。
もちろん最初の1枚はこんなきっかけを与えた有能なる人間に渡すことを信じつつ。