2月23日(火)
7時半起床。
寝坊したため朝食はバナナ。
もちろん黒スケの散歩は寝坊の犠牲にはならず。
朝曇りがちだったが、時間が進むにつれて予報通り晴れてきた。
昨日、ある本を再読して気になる一説を発見する。
読んだことは覚えているが、内容はすっかり忘れているため、とてつもなく新鮮な気持ちで
再読することができることを喜んでいいのか、はさておきせっかくなので、ご紹介。
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そもそもお茶という芸術は言葉で説明できない。
いや、そもそもいまは芸術という概念的な言葉があるから便利だけど、
これは少なくとも明治以降のことであって、利休の時代には芸術なんて言葉はなかったのである。
だけど人々は、いずれ芸術という言葉で集約されるはずの、
しかしまだそのときはばらばらに散らばったままの末端の
一つ一つを好み、愛でながら、それを選り分け、組み合わせて、磨き上げていった。
人々はただお茶を飲み、飲みながらその味にこだわり、
その飲み方にもこだわり、そのお茶で人をもてなすようになり、
そのもてなし方を究めながら、茶碗、釜、炭火、花、掛軸、お茶室、露地、飛石、などなど、
それらが複雑に響き合うところのものを創り上げていった。
つまり、お茶を点てて飲み、そのために料理を作って食べる、そのおこないから栄養やカロリーを除いてもなお残る価値、
というものをふくらませていったのである。
(『赤瀬川原平著『千利休 無言の前衛』岩波新書 頁17~18)
僕はその太線のところを
「髪を切り、そこを染めたりパーマをしたりする、そのおこないから髪をただ維持したいという思いを除いてもなお残る価値」
という読み替えをすることによって、安売り店のようなただ髪を切ることと、美容室に足を運ぶことを明確に、そして意識的に分けていく
必要性を改めて実感した。
それは六本木ミッドタウンにて昨年末にリニューアルオープンした「TSUTAYA Lifestyle CONCIERGE」に宿る
ある種の総合性を想起させる。
たとえば料理のコーナーにいわゆるレシピ本はほとんどなく、
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僕はそこに文化的で豊饒なイメージを見ることは可能であろうと思っている。
ちなみにこのリニューアルで女性客の割合がぐっと上がったと日経流通新聞にもあった。
それから先日新津(新潟市秋葉区)の英進堂書店に行ったときもそういう意味でがんばっているお店だなぁということを実感した。
新刊本だけが偉い顔をして並んではいない。
情報と魚は鮮度が命であろうが、熟成を必要とする書物もあきらかに存在する。
雑誌とて、すぐ腐る雑誌(いわゆる多くの情報誌)もあろうが、数年経っても(むしろ経った方が)その面白さが増す雑誌もある。
多様性、重層性、と言えばよいのか、古本や絶版本を扱っているし、バックナンバーのブルータスなんかがいきいきして
周りを引き立てている。
本屋に意志がある、というか、血液が流れているドクンドクンという音が聞こえてくる気がする。
マーケティング的な人工心臓で同じ鼓動を維持させられているものとは明らかに違うリアルな鼓動、である。
その人(本屋)が不安定な鼓動ながらも確かに生きている、ということを応援するにはどうしたらよいか、ということを
考えなければならない。というか考えてほしい。
かくいう僕がアマゾンのヘヴィユーザーであることをどう説明するのか、という誠実さまでは持ち合わせていないらしい。
近くにないから、はそれほど理由にはならない。
文化をつくることには時間がかかるが、その灯火が消えるのにそう時間はかからない。