寒中見舞いにかえて。

年始のご挨拶ができる時期を遙かに過ぎて、もはや寒中見舞いの時期に突入し、
このまま立春を過ぎるとそのような挨拶すらできなくなるとしたら、僕はどんな顔をして、
今年初めてこの場で何か伝えられるだろうか、と思うとなかなか書き始めることができなかったのです。


お店のウェブサイトが年末にようやく完成し、
ひょんなことから、この場末で言いたい放題のブログにリンクしてもらったことで
ほとんど更新もされていないにもかかわらず、そこそこの来客がある、ということを見るに、
このままほったらかしにするわけにはいかない、という思いがありました。
home|新潟県燕市吉田の美容室 PARIS RAVISSANT(パリスラヴィサント)


それと同時にそのように不特定の方々がふらっと立ち寄れるような、
大通りとは言わないまでも、そこから伸びる小路に引っ越した以上は、
かつての場末感覚で、罵詈雑言と受け取られかねないことを書き付けることは
自分の世間を狭くする蓋然性が高いとも思われましたが、
最近僕の思うことは、人様にこうしろ、ああしろなどと上から目線でものは言わないかわりに、
自分がこう思った、ああ思ったというそこにある事実だけは、そのまま表現してきたい、
ということがありました。


つまり、思っていることはそのままきちんと伝える、ということと、
思ってもいないおべんちゃらは言わない、ということです。


もっと言えば、地雷を踏むことを恐れない、ということです。
もちろん自ら進んで踏む、ということもしない、ということです。


これがわずかながら僕の決意、なのであります。


といった時点で、会場を後にしている人がこの壇上からよーく見えますよ。
別に9回裏で10点差が離れているプロ野球公式戦ではないのですから、帰らなくたってよろしくってよ、いやほんとに。



閑話休題


美しいプロセスが美しい結果をつくる、ということがあります。
美しいプロセスとは無駄のないプロセスということです。
それは最低限の手数で、ということを意味します。
最低限の手数、というのは、美容師のカットでも、寿し職人の握りでも、
そして僕が最近よくやっている雪かきでもとても大切な要素です。


美しいといえば、美人の定義の話です。
あらゆる人の平均的な顔がもっとも美人に近づいていくという事実。
ここでもある意味、無駄のなさ、というか、究極的な平均という一見非個性的要素が、
究極的な美人をつくりだす、というのがとても興味深いことです。


もちろん違う角度からの意見もあります。
ここに顔立ちがよく、しかしながら肌にぶつぶつがある女性がいたとします。
もう一人、顔立ちは決していいとは言えないが、肌が美しい女性がいたとします。
あなたならどちらの女性に好感を持つのでしょう??と聞いたそうです。


すると、より多くの人が後者の女性、つまり肌の美しい女性を選んだ、と言います。
つまり造形と質感は美に関して異なる階層にある要素なのです。


またあるいは、人種を越えてあらゆる平均的な顔が美人である、
という仮説に対して、次のような実験をしたそうです。
アメリカのミスコン受賞者のみの顔を平均化していき、
それとあらゆる人の平均を比較して、どちらが美人かを選んでもらった、と。


すると、それは後者のミスコン受賞者の平均顔のほうが、美人である、とされたのだそうです。
そりゃそうだろう、という思いも少なくありませんがね。


とはいえ、こういうことはなかなか一般化できないことであることは間違いありません。
あぁ、この人は美人だなぁ、と思う人がいれば、その人にとっては美人であるわけですし、
それがたとえ上記の仮説によると、美人ではない、ということになったとしてもです。


やはり自分がそう思えばそうなのです。
それだけが仮説ではなく、真実であると思うのです。