庭のはなし。

4月も7日になろうというのに雪がばさばさと降ってきた。
ひょっこりと帰ってきた冬を目の当たりにして、桜が遠のいていくのが見えた。


とはいうものの、土のなかはだいぶ暖かいみたいです。
昨年の紅葉が終わろうとしてる頃からずっと土のなかにいた彼らは近年にない大雪の下でも
すくすくと育ってくれていたようです。


ぼくはほおっておいてもそれなりに見れる庭という言い訳をしながら、
雑木林みたいな庭もわるくないでしょう、と小声で言いながら、庭に手をかけることをしてきませんでした。
でも自然なうつくしい雑木林は手をかけずにできるものではありませんでした。
ナチュラルメイクが手抜きメイクでもただの薄いメイクでもないのと同じように、です。


これからどうなっていくんだろう。ということはぼくにはよくわかりません。
たぶんお手伝いいただいているお庭の先生の頭のなかにはそれはそれは明確なイメージがあるのでしょうが、
ぼくもそれをもっと具体的に教えてほしい、とも言わないのです。
だいたいの方向性を共有しているという実感があるので、ぼくもなにも知らない部外者みたいに「どんなお庭になるんだろうなぁ」と思いながら眺めています。
そういうスタンスでいられることはとても安心できますし、とてもうれしいことです。
詳細をこうしてくれああしてくれと言うことはもちろんわるいことではありませんが、相手への信頼があるとその必要性をそこまで感じなくてすみます。
むしろ自分の意向とのずれをたのしむことさえできる気がします。
自分が思う以上にきっとしてくれるだろう、と思える人と巡り会えることはほんとうに幸せなことです。


美容師もしかり、です。
洋服屋さんやもちろんお医者さんもそうですが、そういうお医者でいうところの「主治医」のような人はやはり必要な気がしています。
一時的に安い金額で家電量販店で買うよりも、困った時にすぐに駆けつけてくれる町の電気屋さんで買ったほうがいいかもしれない、
という人もかつてよりも増えているのではないでしょうか。
お任せします、と言われてうれしくない人はいません。
その背後には目では見ることのできない「信頼感」がぷよぷよと漂っています。
それを言われたひとはお任せだからどうなっても文句は言われないはずだ、とも思わないでしょう。
お任せしてよかった、自分の要望を伝えるよりもやっぱりよくなったと言われるように全力をつくすにちがいありません。


つまりは、この人は自分よりも自分のこと(どうしたい、という欲望について)をある意味では知っているかもしれない、と感じるということです。


あぁ、なんか自己啓発本みたいな、お説教みたいな、つまんなことを書いてしまいましたが、
何が言いたいかというと、お庭がうつくしくなるのをたのしみにしてほしい、というそれだけのことなのです。


やはりフェイスブックとかツイッターとかでわかりやすい写真だけぺろんっと貼りつけてそれっぽい言葉をつけていくだけだと
どんどん文章を書くことができなくなるなぁと実感する土曜日の午後なのでした。