もやもやのはなし。

有史以来の未曾有のスケールの地震が起きた。


朝、結婚式に行くためにセットをされるお客様がおられた。


どういう雰囲気の結婚式となるのだろう。


遠方の悲惨な光景と目の前の幸せなふたりの姿。
引き裂かれる想いを想像するだけで、いたたまれない気持ちになってくる。


どうやっても割り切れることのない、自分自身で割り切るしかない、
まるで素数のような存在として、心の奥のほうにもやもやが生まれてくる。


突き抜けるような青空がそれに拍車をかける。


で、今日はいい日だったんですよね??

読めないなまえはよくない。

読めないなまえはよくない。
実体験をもとに言っているのですよ、僕は。
僕の名前は「辰幸」と書いて、「ヨシユキ」と読ませる。
うん、まさにむりやりに、読ませるのです。
だって、読めっこない。だって「辰」は「タツ」でしょう。
だからみんな何のうたがいもなく、僕を「タツユキ」くん!!なんて呼ぶ。
僕は、「あっ、すみません、それでヨシユキって読むんです。ごめんなさい」


あたらしい学年になって、教科ごとにあたらしい担当の先生が来ると、
きまって、最初に名簿順でなまえを読み上げる。
僕は、それごとに訂正する。それで、ヨシと読むんです、と。
それがくりかえさえる。何度も何度も。


だんだん僕は、タツユキで生きていこうと思ってくる。
別に、ヨシだろうが、タツだろうが、かまいやしないじゃないか。
(ちなみに僕は辰年でもなく、午年なのですが)
僕が呼ばれたってことがわかることが大事なんだから。


もちろん、僕の親は自分でつけたんじゃなくって、長岡あたりにあるホウトクイナリってとこで
つけてもらったのだという。
いや別につけてもらうのはいっこうにかまわないのだけれど、やはり読める字にしてほしかった。
あるいは、完全に当て字だってことがわかって、先生が「あぁ、これはなんて読むんだい??」と
聞いてくれるほうがいい。
読めそで、読めないってのがほんとうにタチがわるいのだ。


こどものなまえは文字のフォルムと、読みの響きと、わずかな意味性で考えたらどうか、と思う。
つまり、うつくしい文字で、心地よい響きで、ポジティブな意味であってほしいのです。
さらに日本的であったらなおのこと望ましい、とも。


最近巡り会ったことば。
「気宇」(キウ)と読む。心のひろいさま、を意味する。
こういうなまえもわるくないことないですか??
「キウちゃん!!」
よんでみた。おおきな違和感はない。
別におとこのこでもおんなのこでもよし。
画数とかはよくわからないし、あんまり興味がないけど…。


というようなことを、ふと意味もなく、2月22日、
ニャン、ニャン、ニャンで「ねこの日」に思うのでした。

僕の鞄がぱんぱんなわけ。

本を同時並行的に読む、いわゆる併読というものをするわけですが、
今、その冊数が増えすぎて鞄のチャックが閉まらない、とくる。
なにせ、鞄というものはいかなる美しいデザインであろうとも、ぱんぱんでありながら、
その美しさを保つ、ということはかなり難儀なはなしなのです。
これは美しく、且つ、恰幅のいい女性が存在するはなしとは違ったはなしなのであります。


それと本が傷みやすい、というのもデメリットがあります。
さらに本日、北書店さんより注文していた本が入荷しましたよ、というお電話をいただき、
はいはい、近いうちに取りに行きますね、と言ってしまった以上、取りに行かないわけにも
いかないわけですが、もはやこの本は分厚すぎて、1冊でもぱんぱんになりうる大物なので、
これまた厄介なはなしなのであります。(誰が600ページを超えるハードカバーを持ち歩くというの)

夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル

夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル

近著『切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話 』がおもしろかったから
注文したわけですが、厚みとスケールが違いすぎるので、すこし困っています。



さてさて、今入っている4冊はと言いますと、これまたヴァラエティに富んでおりまして、
文藝春秋3月号』芥川賞受賞作2作全文掲載

文藝春秋 2011年 03月号 [雑誌]

文藝春秋 2011年 03月号 [雑誌]

朝吹さんって川上未映子さんとかなりタイプが違うんですけど、とても魅力的に映ります。
たんなる文学少女って感じよりもむしろ、野蛮なんだけど繊細で知性的、
というやっぱり典型的なギャップ理論に着地するのかもしれませんがね。
もちろんお家芸として名高い、西村賢太さんの私小説も、自分の「指針書」(の心の情のとこ)を
書くために読んでおきたいのです。


それから
『思想地図β』東浩紀さん責任編集

思想地図β vol.1

思想地図β vol.1

これが売れまくってる日本ってかなり信頼できる気がしてなりません。
もちろん、僕のあたまでは理解できないので、ぱらぱらとしか読んでおりませんが。
(じゃ、なぜ買うの??とは言わないでほしい。僕はバカだからですよ、としか答えられないから)


村上春樹 雑文集』

村上春樹 雑文集

村上春樹 雑文集

もちろんどっちかって言えば、インタヴュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』のほうが
スリリングではあるのですが、なんとなくぱらぱらするにはこの雑文集もってこいなのですよ。
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです


最後が
『かかわり方のまなび方』西村佳哲さん

「かかわる」ってことがどういうことなのか、ということに興味がある人は絶対読んだほうがいいと思う。
ハウトゥ本でもないし、マニュアル本でもないし、読んで明日から実行できるかどうかっていう視点だったら
むずかしいけど、じんわりじぶんにしみてくるような考えだったり、やり方だったりを望む人にはたぶん後悔しない
1冊になるような気がします。
まだほとんど読んでないけど。(これまでの著作を読み続けると、そんな気分になるときってありません??)


こんなふうに4冊も挙げると、本の内容はわかんなくても、自分の考えてることとか、考えていきたいこととか、
そういうのはなんとなくわかるもので、それは本棚の本ほとんど読んでないや、と思いながら背表紙を見ていくと
あぁ、僕はこんなことに興味を持ち続けてきたわけだ、ということだけはわかる、というのにとても似ていますよね。
というような、本は読まなくてもオッケーみたいな自己弁護をすることはあんまりフェアじゃないけれど、
僕の鞄にこの4冊が入っていることはまぎれもない事実なのです。


そして、朝日新聞朝刊とiPADと『料理通信』の最新号も入ってた。
うすっぺらいから、あんまり気づかなかったけど。

雪かきじいさんのはなし

おかげさまで、雪かきは落ち着いた。
また今月下旬に、つよい寒波が来るらしいが、それはそれ。
あらたな気分で、気持ちよくやろうではないの。


雪かきについてのお話を書きました。
推敲不足が目に余りますが、どうかお許しを。




「雪かきじいさんのはなし」(仮称)


この季節、午前5時に起きたければ目覚まし時計をかける必要はないらしい。
ガガッ、ガガッとまるで分針が12に辿り着いたことを知らせるかのように、
ママさんダンプで雪かきをする音が聞こえてくる。
もちろん、まだ起き上がることはないが、
今日も美しい雪かきを向かいのおじいちゃんが始めたのだな、と思い、
僕はまた眠るわけだけれど。


しばらくして僕は道路に出てみる。
ガガガッ、ガガッ、彼はまだその作業を続けている。
目の前の道は通学路が続いているため、深夜のうちに除雪車動き出し、
きれいなアスファルトが顔を出している。
一方で歩道や屋根なき車庫にあるクルマには容赦ない雪が積もっている。
僕らはとりあえずクルマが出せるようにするために、雪かきを始める。
朝食の後に歯磨きするのと同じように、とても自然に歯ブラシのかわりにシャベルを手にして。


おじいちゃんはどんなに寒い朝でも帽子をかぶることなく、
せっせとひたすらに雪かきを続ける。
すると、長靴で通学する子どもたちがほとんどの通学路に、
スニーカーでもなんの不自由もなく歩ける通学路が一角にだけ出現する。
もちろんそこを歩く子どもたちは雪かきをしてくれたおじいちゃんのことなど、
ほとんど考えることなくすたすたと通り過ぎる。


さらに彼は駐車場だけでなく、歩道までも雪かきの領域を広げてくれるため、
近所の人たちにとても感謝されていたし、僕は母とともになんてかっこいいのだろう、
とまで思っていたのだ。
そして、その気持ちを伝えるために、何かできることはないだろうか、
と考えていて、ついにそれを実行する日がやってきた。


雪はすっかり落ち着いていたけれど、彼のこだわりから言うと
まだまだ雪かきを必要としているようだった。
「いつも雪かきおつかれさまです。日々寒いでしょうから、この毛糸の帽子、どうぞお使い下さい」

と母が言いながら差し出した。
彼は日射しを受け続けてきたことを思わせる深い皺のある顔の表情を
それほど変えることなく受け取った。
それは彼でも被れるようにと、黒とグレーの落ち着いた色調の毛糸で編まれており、
すっぽりと額まで隠れる深い帽子だった。
彼はどうやら耳が聞こえづらいらしく、受け取ったことに対して
何か言うということはなかったようだ。
でも、深い皺のある表情は明らかに笑顔までいかないまでも、
ほほえみに近いものに変わっていた。


翌日、まるで同じ映画の同じ場面を観ているかのように、午前5時ちょうどにそれは始まった。
しかしながら、彼は毛糸の帽子を被ってはいなかったようだ。
気に入らなかったのではないか、と母は心配していたが、
僕はたまたまに違いない、となんとなく思い、母にそれを告げた。
そんなふうに、自分にどんな利益をもたらすか、よりもまわりの人たちの不利益を
どれだけすくなくするか、ということを考えているだろうおじいちゃんの雪かきは
誰かが担うべき役割ではあるけれど、それに挙手できる人はやはり限られている、
と自分の行動を振り返るのが精一杯だった。


その後、雪は一段落し、ほのかな日射しやぱらぱらと降る雨によって
だんだん少なくなっていった。
なので、そのさらに翌日におじいちゃんが帽子を被ってくれていたかは定かではない。
もはや、来年こそ、などと思うことはなく、
おじいちゃんが存在することへの感謝だけが溶けかかった雪の中から顔を覗かせるのだった。


【付記】


村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」より「雪かき仕事」の一説を引用する。


「君は何か書く仕事をしているそうだな」と牧村拓【冒険作家】は言った。

「書くというほどのことじゃないですね」と僕は言った。
「穴を埋める為の文章を提供しているだけのことです。何でもいいんです。
字が書いてあればいいんです。でも誰かが書かなくてはならない。
で、僕が書いているんです。
雪かきと同じです。文化的雪かき」

「雪かき」と牧村拓は言った。
そしてわきに置いたゴルフ・クラブにちらりと目をやった。

「面白い表現だ」
「それはどうも」と僕は言った。

「文章を書くのって好きか?」

「今やってることの関しては、好きとも嫌いともいえないですね。
そういうレベルの仕事じゃないから。
でも有効な雪かきの方法というのは確かにありますね。
コツとか、ノウハウとか、姿勢とか、力のいれ方とか、そういうのは。
そういうのを考えるのは嫌いじゃないです」

「明快な答えだな」と彼は感心したように言った。

「レベルが低いと物事は単純なんです」

「ふうん」と彼は言った。
そして十五秒ほど黙っていた。
「その雪かきという表現は君が考えたのか?」

「そうですね。そうだと思う」と僕は言った。

「俺がどこかで使っていいかな?その『雪かき』っていうやつ。面白い表現だ。文化的雪かき」

「いいですよ、どうぞ。別に特許をとって使ってるわけじゃないですから」

「君の言わんとすることは俺にもわかるよ」と牧村拓は耳たぶをいじりながら言った。
「ときどき俺もそう感じる。こんな文章を書いて何の意味があるのかと。
たまに。昔はこうじゃなかった。世界はもっと小さかった。手応えのようなものがあった。
自分が今何をやっているかがちゃんと分かった。
メディアそのものが小さかった。小さな村みたいだった。みんながみんなの顔を知ってた」
 
そしてグラスのビールを飲み干し、瓶を取って両方のグラスに注いだ。
僕は断ったが、無視された。

「でも今はそうじゃない。何が正義かなんて誰にもわからん。みんなわかってない。
だから目の前のことをこなしているだけだ。雪かきだ。君の言うとおりだ」

ビックマウスの効用

思想哲学・原理原則を学んだ若者はみんな決まって謙虚。
まるで謙虚に振る舞うことが正解であるかのように。
それは守備的姿勢でしかないのではないの??
でも亀田興毅のようなビックマウスの人がいないのが残念。
ということを先日の「情熱大陸」の道尾秀介さんを見て思う。
http://michioshusuke.cocolog-nifty.com/blog/

月と蟹

月と蟹


彼は言う。

「今度の直木賞、取ります」と宣言したうえで、
文学賞を利用して自分を追い込んでるんです。いい作品を書くために」と。

みんな、なぜビックマウスにならないのか、と言えば、結果が出せないとかっこ悪いから、ではなくって??
謙虚な姿勢さえとっていれば、結果が出せなくても、失敗してもそれほどに言われはしないのだ。
こういう保険には加入した方がよいのだろうかね。
ビックマウスは自分へのプレッシャーをかけ、最高のパフォーマンスを引き出すための方法論。
あえて、顰蹙を買ってでもその効用を求めることは高度なモチベーション維持手法でしょう。
少なくとも、二十代であれば、「若気の至り」という時限的免罪符が使えるではないか??
(こういうのと草食系男子っていうのはどこかでつながっているのだろうか。)


理想についてなら誰でも語ることができる。
もちろんそれを追い求める姿勢をとることもできる。
でも実践、行動し続けることができない。
だとしたら、自分から自分を追い込む、という方法以外にどんな方法が。
理想を思い描くだけで、実現するのであれば、あらゆる人の夢が叶うだろう。


というようなことを、ふと考える休日。

寒中見舞いにかえて。

年始のご挨拶ができる時期を遙かに過ぎて、もはや寒中見舞いの時期に突入し、
このまま立春を過ぎるとそのような挨拶すらできなくなるとしたら、僕はどんな顔をして、
今年初めてこの場で何か伝えられるだろうか、と思うとなかなか書き始めることができなかったのです。


お店のウェブサイトが年末にようやく完成し、
ひょんなことから、この場末で言いたい放題のブログにリンクしてもらったことで
ほとんど更新もされていないにもかかわらず、そこそこの来客がある、ということを見るに、
このままほったらかしにするわけにはいかない、という思いがありました。
home|新潟県燕市吉田の美容室 PARIS RAVISSANT(パリスラヴィサント)


それと同時にそのように不特定の方々がふらっと立ち寄れるような、
大通りとは言わないまでも、そこから伸びる小路に引っ越した以上は、
かつての場末感覚で、罵詈雑言と受け取られかねないことを書き付けることは
自分の世間を狭くする蓋然性が高いとも思われましたが、
最近僕の思うことは、人様にこうしろ、ああしろなどと上から目線でものは言わないかわりに、
自分がこう思った、ああ思ったというそこにある事実だけは、そのまま表現してきたい、
ということがありました。


つまり、思っていることはそのままきちんと伝える、ということと、
思ってもいないおべんちゃらは言わない、ということです。


もっと言えば、地雷を踏むことを恐れない、ということです。
もちろん自ら進んで踏む、ということもしない、ということです。


これがわずかながら僕の決意、なのであります。


といった時点で、会場を後にしている人がこの壇上からよーく見えますよ。
別に9回裏で10点差が離れているプロ野球公式戦ではないのですから、帰らなくたってよろしくってよ、いやほんとに。



閑話休題


美しいプロセスが美しい結果をつくる、ということがあります。
美しいプロセスとは無駄のないプロセスということです。
それは最低限の手数で、ということを意味します。
最低限の手数、というのは、美容師のカットでも、寿し職人の握りでも、
そして僕が最近よくやっている雪かきでもとても大切な要素です。


美しいといえば、美人の定義の話です。
あらゆる人の平均的な顔がもっとも美人に近づいていくという事実。
ここでもある意味、無駄のなさ、というか、究極的な平均という一見非個性的要素が、
究極的な美人をつくりだす、というのがとても興味深いことです。


もちろん違う角度からの意見もあります。
ここに顔立ちがよく、しかしながら肌にぶつぶつがある女性がいたとします。
もう一人、顔立ちは決していいとは言えないが、肌が美しい女性がいたとします。
あなたならどちらの女性に好感を持つのでしょう??と聞いたそうです。


すると、より多くの人が後者の女性、つまり肌の美しい女性を選んだ、と言います。
つまり造形と質感は美に関して異なる階層にある要素なのです。


またあるいは、人種を越えてあらゆる平均的な顔が美人である、
という仮説に対して、次のような実験をしたそうです。
アメリカのミスコン受賞者のみの顔を平均化していき、
それとあらゆる人の平均を比較して、どちらが美人かを選んでもらった、と。


すると、それは後者のミスコン受賞者の平均顔のほうが、美人である、とされたのだそうです。
そりゃそうだろう、という思いも少なくありませんがね。


とはいえ、こういうことはなかなか一般化できないことであることは間違いありません。
あぁ、この人は美人だなぁ、と思う人がいれば、その人にとっては美人であるわけですし、
それがたとえ上記の仮説によると、美人ではない、ということになったとしてもです。


やはり自分がそう思えばそうなのです。
それだけが仮説ではなく、真実であると思うのです。

ユニクロでのお買い物

無印良品にはよく足を運ぶのだけれど、ユニクロにはかなり久しぶりに行った。
燕三条駅の近くにあるそれに、である。


犬の散歩用にと、発色のいい黄色のフリースと、裏地がフリースで表地がナイロンのパンツと
それなりに防水してくれそうな手袋を持ってレジに並んだ。


レジは埋まっていたが、僕が近づいていることを察したようで、
遠くから店員さんが歩み寄ってきてくれた。


カウンターの奥にある時計をみるとヤコブセンだったのがとても印象的だった。


あと購入後3ヶ月は返品可能っていう約束も。
さらに4,000円ちょっとだったこともそうかもしれない。


頻繁に行く気にはなれなかったけれど、売れる理由の一端を見た気がした。