経済性のすきまを覗いたら一箱古本市と北書店が見えた日

一箱古本市というものがあるらしい、ことは知っている。
一箱という制約のなかで、参加店主がある思考の軌跡とそこからなる宇宙を表現する場、
ではなくて、一箱のなかに古本を詰め込んで古書店店主になり、
そこを訪れた人たちにご案内し、ご紹介し、お譲りする場、のようだ。
ニイガタでもこの春で3回目を迎えるらしい。
とはいうものの、ぼくは訪れたことさえない。
もちろん店主になったことすらないけれど、
北書店に足を運ぶと「店主どうですか」と佐藤店長に誘っていただけるが、
日曜にお休みすることがむずかしいぼくは「なんとか検討しますが…」と
「ノー」にほど近い返事をしてその場をあとにすることになってしまう。




だからぼくは一箱古本市を想像することしかできない。
たとえば店主として出るとしたらどういう一箱をぼくはつくるのだろうか、という想像。
テーマを持つのだろうか、あるいは、すきな本という補助線のみで構成していくのだろうか。
それを突き詰めて考えていくと「この場とはどういう場なのか」「こういう場は何をする場なのか」という問題に辿り着く。
正解がある問題ではなくて、ぼくとしてはどういう場だと理解して何をするために店主として参加するのか、という問題に、だ。




少なくともぼくはこの場をブックオフよりも高く引き取ってもらえる人たちと巡り会うための場だとは思わないだろう。
つまり中古品を少しでも高く買ってもらうという経済性の原理を適用したらこの場がそれほどに魅力的な場になるとは到底思えないからだ。
もちろんそういう動機があったっていいと思う。
ただ選書して箱に詰めて1日座りお客さんとお話しながら売っていくことは
そういう観点での効率性からかなり遠いところにある気がするのだ。



ぼくとしてもイメージはこうだ。


一箱古本市はいらない本を売る場ではなくて、
必要な、大事な本を感性を共有した相手に手渡す場ではないか。
もっと言えば、いかに創造的な選択と構成で一箱という本の宇宙をつくりあげるか、ということになるかもしれない。
ここが、不必要なものを換金するという発想のフリーマーケットとは大いに異なると思っている。
「売買」の場ではなく、「交換」の場であり、「共感」の場。
「売買」とは金銭を介した「交換」を意味するのであり、同じではないか、
という意見もあると思うけど、
「交換」は「共感」や「対話」を介したものになるのではないか、
というのがぼくの見立てなのだ。


そこでは、本にまつわる楽しくも奥深い話ができるということが出品者が受け取る対価である、という発想って斬新だと思う。
ぼくらは娯楽に一定の対価を支払う。
ディズニーランドに行けば「1デーパスポート」として6,200円ものお金を支払う。
そしてぼくらはおおよそ1万円ほどのお金をディズニーランドでつかって帰路につく、
というのが平均的なようだ。
だとしたら、ぼくが1万円分の本を箱に詰めて本好きの人たちとたのしいお話をしながら
それを幾ばくかの対価に対して渡していく、という娯楽が存在してもいいのではないか、
というのにはすこしばかり無理があるだろうか。


ただ考える「仕方」についてはご理解いただけるのではないか、と思ってる。
売る、とか、商売をする、ということは儲けが出るものという発想から飛び出して、
もし、そのものが娯楽になるとしたらそれはそれでたのしいじゃん、という発想はありのような気がするけど…。
ちょっと毛色は違うけど、子どもたちにとってのキッザニアがそれを証明してくれてるのではありません?




もちろんこれはいままでの経済性の論理の檻からよっこらせっと出ないとなかなか辿り着けるものではないのかなぁ、とも思うわけで。




でもそういう延長線上で考えてることが他にもありまして。
フェイスブック上にあるファンサイト・北書店ファンクラブも99人になったようで、もうすぐ100人になるようだ。(ぼくもいいね!してますよ)
と言うぼくも北書店までクルマで1時間ほどかかるので、
ついついぽちっとしてしまうことも少なくないのだが、
あの界隈に行くときはぜひ立ち寄りたいし、ぜひ買いたいと思ってはいるのです。
ぼくのできる応援ってそのくらいだから、せめてもそのくらいはしたいのです。




こういうのを経済性の論理から考えると、
マーケティングの結果としてのアクションがビジネスの作法として当然なのだろうけれど、
逆に、このアクションを真っ当だと言える世の中、あるいは地域に住みたい、ということで
マーケティングを乗り越える動きがあるとすると、それが北書店へのみんなのまなざしであるように思う。




と同時に、まちづくりプランナーの人の戦略的な都市計画ではなくって、きっとそういうまなざしが町をつくっていくのではないか、とも。




もちろん今年も一箱古本市には出られそうもないわけで。
もし出られたらたぶんいらない本じゃなくって、読んでもないけどすげーおもしろそうな本とかどうしても再読したい本で、
その一箱をつくることになるだろうことだけは間違いない。

庭のはなし。

4月も7日になろうというのに雪がばさばさと降ってきた。
ひょっこりと帰ってきた冬を目の当たりにして、桜が遠のいていくのが見えた。


とはいうものの、土のなかはだいぶ暖かいみたいです。
昨年の紅葉が終わろうとしてる頃からずっと土のなかにいた彼らは近年にない大雪の下でも
すくすくと育ってくれていたようです。


ぼくはほおっておいてもそれなりに見れる庭という言い訳をしながら、
雑木林みたいな庭もわるくないでしょう、と小声で言いながら、庭に手をかけることをしてきませんでした。
でも自然なうつくしい雑木林は手をかけずにできるものではありませんでした。
ナチュラルメイクが手抜きメイクでもただの薄いメイクでもないのと同じように、です。


これからどうなっていくんだろう。ということはぼくにはよくわかりません。
たぶんお手伝いいただいているお庭の先生の頭のなかにはそれはそれは明確なイメージがあるのでしょうが、
ぼくもそれをもっと具体的に教えてほしい、とも言わないのです。
だいたいの方向性を共有しているという実感があるので、ぼくもなにも知らない部外者みたいに「どんなお庭になるんだろうなぁ」と思いながら眺めています。
そういうスタンスでいられることはとても安心できますし、とてもうれしいことです。
詳細をこうしてくれああしてくれと言うことはもちろんわるいことではありませんが、相手への信頼があるとその必要性をそこまで感じなくてすみます。
むしろ自分の意向とのずれをたのしむことさえできる気がします。
自分が思う以上にきっとしてくれるだろう、と思える人と巡り会えることはほんとうに幸せなことです。


美容師もしかり、です。
洋服屋さんやもちろんお医者さんもそうですが、そういうお医者でいうところの「主治医」のような人はやはり必要な気がしています。
一時的に安い金額で家電量販店で買うよりも、困った時にすぐに駆けつけてくれる町の電気屋さんで買ったほうがいいかもしれない、
という人もかつてよりも増えているのではないでしょうか。
お任せします、と言われてうれしくない人はいません。
その背後には目では見ることのできない「信頼感」がぷよぷよと漂っています。
それを言われたひとはお任せだからどうなっても文句は言われないはずだ、とも思わないでしょう。
お任せしてよかった、自分の要望を伝えるよりもやっぱりよくなったと言われるように全力をつくすにちがいありません。


つまりは、この人は自分よりも自分のこと(どうしたい、という欲望について)をある意味では知っているかもしれない、と感じるということです。


あぁ、なんか自己啓発本みたいな、お説教みたいな、つまんなことを書いてしまいましたが、
何が言いたいかというと、お庭がうつくしくなるのをたのしみにしてほしい、というそれだけのことなのです。


やはりフェイスブックとかツイッターとかでわかりやすい写真だけぺろんっと貼りつけてそれっぽい言葉をつけていくだけだと
どんどん文章を書くことができなくなるなぁと実感する土曜日の午後なのでした。

このちいささをはかる度量衡とは。

とてもちいさな話をする。
何がちいさいかはご想像におまかせする。
しかしながら恵方巻きにまつわる話ではないので、あしからず。


衣類用の洗剤の話。
最近はゴミの軽減ということもあり、詰め替え用が売っている。
だから同じ洗剤を使い続けるのであれば、ぜひ詰め替え用を買いたい、と思っている。


なのに、相対的に詰め替え用のほうがわずかにでも割高なのがしっくりこない。
簡易包装でその分経費はかかっていないだろうし、そもそも継続的に使いたいというリピーターなのだよ、ぼくは。


新たなお客さんを獲得しようとして、まず通常包装のほうを割安にしてしまうメーカーをうらんでた自分は
美容室でもそう遠くないことをしてることをすっかり忘れていたりする。


はじめてのお客様20%オフとか・・・・。(でもこれを見た方はぜっひ来てくださいねっ)
ま、試食みたいな、トライアル料金だから割引じゃない、というこっち側の理屈はあるにしても、である。


もちろん少々割高でも簡易包装の洗剤を買えばいいだけの話なのである。
無駄なゴミを出すくらいであれば少々高くても買うぞ、という人ばっかりになったらすこしは世の中変わりそうな気がするが、
エコだって顔して(計算しないひとだったら、きっと容量÷値段なぞ考えずにすぐにカゴに放り投げるのだろうけれども)
割高なのがなんとなくしゃくぜんとしないのだ。


しゃくぜんとしないついでにもう一個言うと、バースデーのホールケーキが割高感があるのもしゃくぜんとしない。
日々のお買いもので割安感を求めても、お祝いのときに(一生に一回の結婚式ならなおさらのことだろう)そういうちいさなことは
ふつう考えないのである。
だからそれを逆手にとって、値段を決めていくということが業界においてあたりまえになってくる。
ほんとなら記念日にしかケーキを買わないひとよりも、日常的にこまごまとケーキを買うというひとのほうがありがたいお客さんであるはずなのにね。


以上で、ケツの穴のちいさい話はおわりにしよう。
ま、そんなことどうでもいいぢゃないか、と言える寛容な人間になるべく、とりあえずぼくは雪かきしにいってくるぞ。

寒中お見舞いにかえて


【リース】(英: wreath)
花や葉などで作られた装飾用の輪。特に、室内の壁やドアに飾られる装飾物として使われる。



【熊手】
農業や庭の掃除に使われる、短い歯を粗い櫛状にならべた棒を垂直に柄に取り付けた農具。
幸運や金運を「かき集める」という意味を込めて、商売繁盛の縁起物として熊手を飾る事がある。



竹でつくられた熊手を見ていると茶筅を思い出したのは、初釜の頃合いであるからではない。
ちなみにこれはフローリストルミノさんにいただいたリースと熊手を取り合わせたようなお正月飾り。
門松まで飾れないけれど、これならひょいっと玄関先にかけておけるからありがたい。


もはやこの期に及んで今年はじめてお会いする方に「あけましておめでとう」などとは言いがたいわけであるので、
ここに今年のお正月の風景を載せることで年始のご挨拶に代えさせていただくことにする。


【今年の目標】
ちゃんとブログ更新をする。


※「ちゃんと」とはいかなる頻度を示すのか、について具体性が欠如しているのではないか、というご指摘はごもっともではありますが、今日はこの辺で。

考えてない感じを考えてつくる、ということ。

自然に近づけるってそういうことじゃないかな、と。


雑作なく、なにげなく、ずっとそこにあったかのようにつくるということはむずかしい。


まるでピックニックに行って野にある花や果実をかごに投げ入れたかのような。
農家の軒先におばちゃんが畑から持ってきたかごは案外こんなふうかもしれない。



ルミノさんのお花にはそういう感覚が垣間みれて好感が持てる。
つくりこみすぎない。
でもつくりこんだもののほうが手が込んでいていいな、というひともすくなくないだろうから困ってしまうんだろうな。


美山荘の摘草料理をふと思い出す。

ある出来事でそのすべてを判断されるのだとしたら。

たとえばランチというものには、飲食店における「お試し」のような意味合いがある。
1000円前後のランチをいただいておいしかったら夜も行ってみたい、ということを思うし、
お店側としてもそういう広告とか宣伝のような意味合いにおいてランチをリーズナブルに提供して
全体としての稼働率を上げ、売上を確保する、という仕方で利害が一致する。


それは旅館業においてもそう遠くないものがあり、
お昼ごはんをいただいてお風呂に入って、という日帰りメニューを通じて、飲食店におけるランチ、
つまり「お試し」をしてもらってもしよかったら泊まってみてほしいという要望をやんわりと伝えつつ、
チェックアウトの時刻からチェックインの時刻の売上的にゼロの時間に少しでも売上につなげる、ということを考える。


その日帰りプランに行ったときのこと。
あまりにびっくりしたのでここに記しておく。


たぶん連泊のお客様以外にお客さんは誰もいなかった。
スタッフの人はみんな休憩モードだった。
間の悪いときにアポなしで訪問したお客かのように、さえない居間に通された気分。
こちらが「こんな時間に、すいません」と言いたくなるような。
冷めきったお昼御膳。固すぎる茶わん蒸し。鮮度を感じないお刺身。
朝食のあまりがそのまま置かれていた、と言われても信じてしまいそうだ。
おかげさまでおなかはすいていた。
それでも残してしまうほどだった。
僕はそれほどに残すのを好む性分ではない。
のに、である。


バスタオルの用意はないとふつうの顔をして言う。
じゃ、それは前もって伝えていただけますか。そしたら持ってくるからさ。
予約を確かに頂戴した、という確認の電話をするレベルのおもてなしをするのであれば。
あるいはそれは自分たちの都合で、キャンセルをされたらたまらないという感情によってのみなされたとでもいうのですか。
だったら仕方ない。ぼくの目がふしあなだった、ということで反省しようではないか。


そう、ふしあな。。。
ウェブサイトと現実の旅館とのギャップをここまで実感したことはなかった。
うつくしすぎるウェブサイト。
古く掃除の行き届いてない旅館のあちらこちら。
かわいすぎるプリクラ写真と合コンで出会った・・・、というふさわしくない比喩を持ち出すまでもなく
ちょっとしただまされた感覚のようなものが到来する。
いや、見抜けなかった自分が至らなかったのだ、という解釈をせねば。
怒る気さえしない、あきれてしまう瞬間というものがある。
とすれば、あのときもそうだった。


それでもなんとかのいい宿100選とかに選ばれているのだから困ってしまう。
もちろんそれをあてにして、信用して訪れたわけではないのだけれど、
その選者たるひとはどこを見ているのだろうか、
と彼らの目にふしあながあることをイメージしてみる。
コンタクトを忘れた、とか。極度の寝不足であった、とか。
あるいはそのときだけ旅館が、不健康を自覚するおじさんが人間ドックまえの1週間だけお酒を控えるかのように、
なんらかの調整をした、とか。なーんて。


旅館ってホスピタリティを実感する究極的な形態だと思うから、
こういうことはほんとうに残念でならない。
うつくしすぎるウェブサイトにはみなさんお気をつけてくださいね。


ありのままの誠実さとはいかに尊いものか、ということを思い知った出来事。

おいしいの感じ方のいくつか。

ぼくがおいしいと思えるものは「おいしい」と言えるのだろうか。
うん、言えると思う。
すくなくともそれはおいしくないはずだって誰かに言われたところでぼくの舌が意見を変えるはずはない。
だって、ぼくはいまここで、経験として感じていることだから。
なんびともそれを侵すことはことはできない。
たとえそれがいかに主観的なものであろうとも。


一方で「おいしい」の客観化、数値化への欲望はおわることがない。
ミシュランの☆が象徴的。
でもぼくはそれはそれでいいと思っている。
おいしいにはそういうヒエラルキーがたしかに存在してる。
階級社会からは距離をおく日本において、美食家のジャーゴンが庶民にとって価値あるものか、は
このさい置いておくとしようではないか。
いうまでもなく、ぼくも☆についたレストランに行ったことはない。
でもじぶんのなかで、ちっぽけなヒエラルキーがあることはたしかだ。



それとはずれた軸に「あのときの記憶を呼び起こす」というものがある。
こどもの頃に足繁く通った喫茶店のドーナツがおいしい、というような。
(あるいは、行ってもいないのになつかしさを感じるドーナツがある。たとえば、三条河原町の南東にある六曜社のドーナツであるとか)
案外そういうのって、今食べたらどうってことないドーナツだったりする。
だけど、おとなになって口にはこんだときの味覚が昔のそれをおいしいなぁと思いつつ食べてた記憶と
ピーンと一直線につながる。
そういう回路でおいしいを実感する場合、その思い出なき人が食べたそのときの味覚とはまったく違うものになりうるわけで。




そもそも僕らはある料理のそれそのものだけを味わうことはできるのだろうか。
とても評判のいいレストランであったり、料理の鉄人が自らつくった料理だと言われて出てきた皿を目の前にして
味わうまえに考えることになる。
これをおいしいと思えない自分は味のわからぬ者となってしまうではないか・・・。
もちろん「ようわからんッ!!」ということもできるだろうけれども。



あと誰と食べるか、どういう雰囲気の場所で食べるか、という軸もある。
これはおいしいものをいただく、ということは目的ではなく、手段である、と考えるとわかりやすい。
いかなる手段か。
たのしい時間を過ごすための、である。
気の合うひと、尊敬するひと、好意を寄せるひと・・・。
それがどれほどのおいしさのスパイスとなるかははかりしれないだろう。
おいしい料理そのものがたのしい時間を過ごすためのスパイスであるのだから、
おいしいかどうかなんて、どうでもいいとも言えなくもない。(ちょっと乱暴すぎるけど)


でもぼくはただただおいしくないものを食べたくないのだ。(美食家とかグルメとかではなくってね)
すっごくおいしいものでなくてもいいから、ていねいにつくられたものを口に運びたい。
ただそれだけだ。
でもそれが案外むつかしかったりするからこまるのだけれども。